アメリカの歴史小説『風と共に去りぬ』は不朽の名作として知られ、その名前を聞いたことのある方も多くいらっしゃるでしょう。
が、その作者であるマーガレット・ミッチェルについてはあまり知られていないのでないでしょうか。実は彼女「作品は良かれ悪しかれどう思われても構わないが、作者のプライベートは公開すべきではない」と語り、その信念は生涯変わらなかったようです。
その意味では作者の信念に反することにはなるのですが、ミッチェルの生涯を知るとそこには本作に与えた影響や、深く関係した出来事が見えてきます。それは作品の理解にもつながるため、決して意味のない行いだとは思いません。
『風と共に去りぬ』をより深く知るべく、彼女の生涯に迫っていきましょう。
マーガレット・ミッチェル48年の生涯
読書好きで、脚本の執筆や演劇に興じた少女時代
マーガレット・マナリン・ミッチェルは、南北戦争から45年ほど経った1900年、アトランタのジョージア州にて三人兄弟の末っ子として生まれました。
マーガレット・ミッチェル(出典:Wikipedia)
父はアトランタ弁護士会の会長を務めている高名な弁護士で、かつアトランタ歴史協会の会長でもありました。母はアトランタ婦人参政権運動をする団体を率いるメンバーの一人です。
父の経歴にもあるように、ミッチェルの家族はみな歴史に深い関心を持っていたよう。特に、ミッチェルは南北戦争を生き抜いた母方の親戚から、その体験を聞いて幼少期を過ごしました。この経験は、後の彼女に大きな影響を与えることになりました。
ミッチェルは幼い頃より、活発でおてんばな少女だったようです。乗馬や野球、木登りを好み、11歳を過ぎるまでスカートは履かせてもらえずズボンを履かせられていました。これは、激しく動くあまりスカートに暖炉の火が燃え移る事件があったせい。そのおてんばぶりは手に取るように伝わってきます。
男の子のような遊びをする一方、冒険小説を中心に読書もよくしていました。また、アルファベットを覚えると自らも物語を書いて遊ぶようになります。
ティーンエイジャーの頃には図書館に通いつめ読書に没頭しつつ、脚本を書き始めます。演者はもっぱら自身や親友のコートニー、初恋の恋人ヘンリー・ラブ・エンジェルらであり、ミッチェルの自宅で演劇が行われました。
彼らはこの演劇ごっこをいたく気に入っており、当時流行った映画の一場面を再現しようと、険しい峡谷や、サザン鉄道(かつてアメリカに存在した鉄道)のレールの上でも演技に興じました。
サザン鉄道の車両(出典:英語版Wikipedia)
ちなみに、ヘンリーはミッチェルに「1000回のプロポーズ」をしたと言われています。ミッチェルも火山島を舞台にした小説『ロスト・レイセン』を二冊のノートに綴り、彼に贈っています(ミッチェルとヘンリーの死後にヘンリーの遺品から発見され、後に出版されることになります)
このように情熱的な恋愛でしたが、残念ながら二人は別れてしまいました。ただ、絶縁してしまったかというとそうではなく、生涯を通して良き友人ではあったよう。
18歳となったミッチェルは医学の道を志し、マサチューセッツ州にあるスミス・カレッジに入学しました。この頃からミッチェルは自分のことをペギーと呼ぶようになり、拘りをもっていたようです(よって、文献の多くがペギーの愛称で記されています)。
カレッジでは学業に励んでいたものの、翌年母がインフルエンザで死去すると大学を退学し自宅へ戻っています。これには父の懇願があったようで、学業を諦め実家の家事を取り仕切るようになりました。
結婚と離婚、事故を経験する波乱の日々を過ごした
年頃になったミッチェルは、作中のスカーレット同様に多くの男性から好意を寄せられていたよう。
そして22歳の時、あるパーティで出会ったビリアン・キナード・アップショー(赤毛だったことより通称はレッドといった)と婚約・結婚します。兄は「ミッチェルとは合わない!」と助言し、父や友人も結婚には大反対だったよう。ただ、ミッチェルはレッドの背が高く、フットボーラーだったところに惹かれてその意思を曲げません。
が、周囲の心配通りにレッドとの結婚はわずか3ヶ月で破綻し、彼は家を出て行きました。その理由はレットが「酒の密売人」で、かつマトモな稼ぎもなくミッチェルの実家に同居し、ショックを受けた父が寝込む事態になったため。結局のところ、2年足らずの結婚生活に終わりました。
レットとの別居中、ミッチェルは地元の新聞社アトランタ・ジャーナルに就職していました。記者としてインタビュー記事の執筆や「サンデーマガジン」というコラムを担当するなど、この頃の経験は後の作家活動に多大な影響を与えた時期であったと思われます。
着実に記者としての地位を確立していく中で、同社の元同僚でありレッドの友人というジョン・ロバート・マーシュと再婚。彼は生涯のパートナーとなります。
順調に人生の再出発を果たしたミッチェルですが、思わぬ出来事が起こります。ジョンと楽しんでいた乗馬で落馬して足首を捻挫。加えて交通事故に遭ったことで怪我が悪化し、長期の自宅療養を余儀なくされてしまったのです。
そのために退職し、自宅で過ごすミッチェルを楽しませようとジョンは図書館で様々な分野の本を借りてきました。ミステリや歴史小説など次々と読了していくミッチェルに対し、ジョンは「そんなに本が好きなら、小説を書いたらいいのに」と勧めたよう。
ミッチェルは「私もそんな気がしていた」と答え、幼少期に聞き馴染んだ南北戦争の歴史をテーマに決め、執筆を開始しました。執筆方法は独特で、ラストシーンを最初に書き、そこからさかのぼっていく形でストーリーを展開。文章をチェックしていたのは記者・国語教師の経験があるジョンで、この執筆は実に約10年にも及ぶことになります。
10年をかけて完成した作品は大ベストセラーに
彼女が35歳を迎えた頃、ついに小説は完成しました。とはいえ、ミッチェルはその作品を公表するつもりも、誰かに読ませるつもりもありませんでした。そのため、周囲には小説を書いたことすら公言していません。
そんなある日、ミッチェルは転機となる出会いを果たすこととなります。友人の紹介でマクミラン・ジャーナル社の編集者であるハワード・ラザムと出会い、彼から新人作家や原稿を探す旅行の最中であることを聞かされました。
要件としてはアトランタの観光案内をミッチェルに頼むためにやってきたのですが、彼はミッチェルに興味をもち、何か原稿を書いてはいないかと尋ねました。ミッチェルはこれを否定し、原稿を見せようとはしません。
ただ、それは決して公開を渋ったわけでも、恥ずかしがったわけでもなく、元記者として「こんな出来損ないの作品は見せられない」という思いから来た態度でした。
しかし、最終的にはジョンの説得を聞き入れ、ラザムに原稿を読んでもらうことを決心。彼は「ベストセラーになる」と確信を得て、1936年にマクミラン・ジャーナル社は『風と共に去りぬ』を出版しました。
ラザムの思った通り、本作は瞬く間に大ベストセラーに。何度も増販され、異常とも言える人気を博していきました。ミッチェルは当時、「なんで、1冊3ドル(当時は家族の1ヶ月分の食費に値する金額)の本がこんなに売れるの?」ことがと不審に思っていたよう。しかしその人気は本物で、まもなく29カ国語に翻訳され世界中で読まれる小説となりました。
出版の翌年である1937年にはアメリカのピュリッツァー賞を受賞し、1939年にはヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル主演の映画が大ヒット。本作はアカデミー賞にて作品賞、監督賞、主演女優賞を始めとする9部門を制します。
成功の裏で続編への期待に悩まされた晩年
ミッチェルは一躍、著名な作家の仲間入りを果たしました。当然、アトランタの平凡な主婦であったミッチェルの生活は一変します。
この頃、彼女は電話やベルが鳴り止まないことで気が休まらず、自宅をたびたび留守にしてホテル暮らしをしたり、作家仲間の自宅に匿ってもらっていたりと心労が絶えませんでした。
他方、ミッチェルは世間や出版社からの続編への強い期待にも悩まされます。ただ、ミッチェルは「持てる知識の全てを捧げたため続編は書けない」と語り、原稿に向かうことはなく、数多く届けられたファンレターの返信に時間を費やしました。
続編を出版することはなく過ごしていた1949年の8月。「ひどく気が塞いでいた」というその日、彼女は気分転換にジョンとイギリス映画の『カンタベリー物語』を見に出かけけました。
途中で彼女は道路を横切ろうとし、飲酒運転をしていたドライバーにはねられたのです。その傷が原因となり、5日後に48歳の若さで亡くなりました。
ジョンは、彼女の死後、遺言通りに未完成の原稿や日記など全てを家の裏庭にて焼却したそうです。
ベストセラーになったことで、図らずも不幸な身の上になってしまったミッチェル。もし、ラザムに出会わず、『風と共に去りぬ』が出版されなかったら…。そんな世界のことを考えずにはいられません。
※ミッチェルの作風は次のページでご紹介!
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