「恋愛と皮肉を愛した作家」ジェーン・オースティンの生涯や作風、おすすめ作品4選まとめ!

ジェーン・オースティン アイキャッチ 古典作家紹介
スポンサーリンク
スポンサーリンク

あなたは「作家ジェイン・オースティン」の名を聞いたことがあるでしょうか?

彼女の代表作である『高慢と偏見』の作者、と言えばお気付きになる方も多いのではないかと思います。

オースティンはナポレオン戦争が勃発していた19世紀前期に活躍した、イギリスを代表する女流作家です。とはいえ、世に出版された作品は6作品だけ。

彼女は41歳の若さで亡くなり、作家デビューからはたった6年しか経っていなかったためです。

しかし、その短い人生には彼女の作品に影響する様々な出来事がありました。この記事では、恋愛や結婚を描くことを得意としていたオースティンの生涯や作風、作品の特徴を解説し、オススメの作品も紹介していきます。

スポンサーリンク

ジェーン・オースティンの生涯

後の小説の舞台となるイギリスの田舎町で生まれ育つ

オースティンは、1775年にイングランド南部ハンプシャーのスティーブントンで牧師の娘として生まれます。

彼女は8人兄弟の7番目の子でしたが、兄弟姉妹のうち女子は2歳上の姉・カサンドラとオースティンだけ

カサンドラ・オースティン 肖像画カサンドラ・オースティン(出典:Wikipedia)

そんなオースティン一家は経済的な余裕がなく、父は牧師職のかたわらに男子学生を預かり学校経営をしていました。

1783年、オースティンは父の勧めでカサンドラと共に知人の元に預けられ、オックスフォード(後にサウサンプトンに移転)の寄宿学校にて救育を受けます。が、チフスが流行し2人が感染した為に直ぐに自宅に戻りました。

1年の療養の後、1785年から翌年にかけてはバークシャーにあるレディング修道院女子寄宿学校で学ぶこととなりますが、ここではダンスの嗜み程度のことしか教わりませんでした。結局、この教育に価値を感じなかった父から自宅に連れ戻されています。

父は息子たちには教育熱心で大学に行かせますが、娘たちの教育にはあまり関心がなかったようです。最も、それはこの時代の娘に対する普通の価値観でした。寄宿学校から自宅へ戻ってからは、ピアノの演奏や刺繍、読書をして過ごしました。

小説家の才能が見え隠れしていた少女時代

いわゆる「女子らしい」生活を強いられていたオースティンですが、その中でも読書は彼女の生活の中心でした。

実際、カサンドラとオースティンは父の書斎の書物を片端から読んで過ごしていたよう。当時書物は高価なものだったため貸本屋にもよく足を運んでおり、ゲーテやシェイクスピアのように古いものから、当時流行していたゴシック小説まで広く好んでいました。兄が通う大学の図書館に連れて行ってもらったことも多かったようです。

こうした読書習慣は、彼女の生涯に大きな影響を与えます。当時女性が小説を書くことを良しとしない風潮がありましたが、家族は彼女が小説を描くことを好意的に受け止めていました。

ノートや紙の切れ端に短編の物語を書き溜めており、度々家族や親しい友人に読み聞かせて楽しんでいたようです。そしてその中には、すでに小説の原型が見られていました。

この頃に、手紙のやり取りのような書簡体形式で描いた『エリナとメアリアン』は後に加筆され『分別と多感』として出版されることになります。

『エリナとメアリアン』の執筆はオースティンがまだ19歳のときで、父は彼女の作品を高く評価し出版に向けて奔走したという逸話もあります。

スポンサーリンク

叶わなかった初恋や、恋人との別れを経験した20代

1796年、オースティンは20歳になった冬に初恋を経験することになります。彼女は「完璧な美人」であったという従姉妹からの証言も残っていますし、当時20歳といえば女性の結婚適齢期に差し掛かってもいました。

そのお相手は知人の甥だったトム・ルフロイという人物。

トムルフロイ 肖像画トム・ルフロイと思われる人物(出典:Wikipedia)

トムと出会ったオースティンはすぐに親しくなりました。実際、婚約者に会いに出かけていたカサンドラ宛の手紙の中には、彼から本を借りたことや「彼はとても紳士的でハンサムよ」といった熱のこもった内容が記されてるほど。

が、トムは大学卒業後にロンドンで学業を続けている身でしたし、12兄弟の長男という立場でもあり家族のために責任ある結婚を求められていました。

こういった事情もあってか、トムとは淡い恋のまま結ばれず失恋。ちなみに、この年の秋に下書きが出来たのが「身分違いの恋」を描いた彼女の代表作『高慢と偏見』であり、トムはミスター・ダーシーのモデルだと分析されています。

1801年には父が長兄ジェームズに牧師館と職を譲ったことにより、一家は当時有名な温泉リゾートだったバース(彼女の作品『ノーサンガー・アビー』『説得』の舞台となっている)に引っ越しします。

バース 街並みバースの町並み(出典:Wikipedia)

この時には、家財や食器だけでなく大切にしていた本すらも運べなかったようで、オースティンは大変なショックを受けたそうです。

新たな恋がスタートするのは、バースの隣にあるデヴォン州の海辺町に旅行に行った時のこと。彼女はそこでとある紳士と恋に落ちました。

この紳士は牧師であったとも伝わっていますが、カサンドラはその紳士が今度オースティンに会ったら求婚するのではないかと感じていたようです。しかし、所用で町を離れた紳士を待ちわびていたオースティンに届いたのは、「彼が亡くなった」という哀しい知らせでした。

その出来事の翌年には年下で裕福な家庭出身のハリス・ウィザーという人物に求婚されていますが、一旦承諾したものの翌日には断っています。

彼女は当時26歳で、当時の風潮を考えれば「これを逃せば結婚は出来ないかもしれない」という思いからいったんは承諾したのだと推測できます。が、彼女にとって愛のない結婚は耐え難いものだったのでしょう。

結局、彼女は同じく婚約者を亡くした経験をもつカサンドラと共に生涯独身を貫き通します。結婚が自立するための唯一の選択肢だった時代であり、母親からは「結婚することは生活のためよ」とも言われたそう。

しかし、彼女は生活の安定や世間体のために自分の人生を犠牲にはしませんでした。

父の死後チョートンに引っ越し、分別と多感でデビューする

1805年、父が亡くなると母姉とオースティンは港町サウサンプトンにある五兄フランクの家で一緒に暮らし始めます。

が、あまり気の休まる環境ではなかったようで、1809年には上級階級の家庭で養子として育った地主の三兄ジェームズの厚意で彼の別宅を提供してもらえることになりました。その結果、オースティンは静かな田舎町チョートンで執筆活動に集中して過ごせるようになります。

チョートン オースティンの家
チョートンでオースティンの過ごした家。現在は「ジェーン・オースティン・ミュージアム」になっている(出典:Wikipedia)

そして完成したのが『スーザン』(出版時に『ノーサンガーアビー』と修正される)という作品で、四兄ヘンリーの助力でロンドンにある出版社クロスビー社と契約に至りますが、オースティン存命中は出版が叶いませんでした。

1811年、書き溜めていた原稿に加筆した『分別と多感』がイガートン社から出版され、ついに作家デビュー。が、聖職に就く家族に配慮して〝バイ・ア・レディ(ある貴婦人著)〟という匿名での出版を選びました。

1813年には『高慢と偏見』が出版され、大ヒットとなりすぐに完売。その年の内には増版されています。翌年に出版された『マンスフィールド・パーク』も半年で完売となり、オースティンは着実に人気作家としての地位を固めていきました。

当時、摂政王太子だった後のジョージ四世もオースティン作品の大ファンであり、邸宅に招待されるという出来事もありました。この事はごく少ない身内しか素性を知らなかったオースティンの存在を明かすことに繋がり、この時に出版予定だった『エマ』はジョージ四世に献上されました。

スポンサーリンク

アデソン病に罹患し、ひっそりと亡くなる

作家として順調に活躍していた彼女でしたが、この時期から病にむしばまれるように。体の痛みと熱が続き、現代でいうリンパ腫のようなアデソン病であったと言われています。

『説得』を書き終えた頃には歩く事すらままならず、カサンドラとヘンリーに付き添われてウィンチェスターへ療養に向かいますが、その年の内に亡くなります。

大きな功績を残したオースティンですが、独身だったために当時の慣習に習って姉カサンドラだけが見送るというひっそりとした葬儀が執り行われました。

作家としてオースティンの名が読者に知られることになったのは、死後しばらくが経ってから。処女作である『ノーサンガーアビー』をクロスビー社から買い戻していた兄ヘンリーが監修し、『説得』とセットで作者の伝記的注釈を載せて出版しました。

※オースティンの作風やオススメ作品は次のページでご紹介!

コメント