2019年10月10日、本年度およびセクハラ問題で延期となった昨年度のノーベル文学賞受賞者が発表されました。
昨年度の受賞者はポーランドの女性作家オルガ・トカルチュクで、本年度の受賞者はオーストリアの男性作家ペーター・ハントケ。
どちらの作家も日本ではややマイナーなためか、ニュースは日本の村上春樹が受賞できなかったことで持ちきりであったような気がします。
と、少し話は変わりますが、皆さんも報道量などから「ノーベル文学賞は最高の文学賞だ」というイメージをお持ちかもしれません。
確かに、文学界で最も権威を有する賞というのは間違いないでしょうし、その意味でいけば最高峰の文学賞です。
しかし、あくまでそれは「権威」の問題であり、我々が読んだ時に「最も面白い作家が受賞する賞」ではない、と私は考えています。
そこで、この記事ではいくつかの「ノーベル文学賞をめぐる誤解」を整理したのち、本当に読むべきノーベル賞作家をご紹介していきましょう。
ノーベル文学賞をめぐる3つの誤解を整理
まず、この項では「なんとなくノーベル賞って凄いらしい」というようなフワッとした知識をお持ちの方に向けて、ノーベル文学賞をめぐって勘違いしがちな3つの誤解を整理していきます。
以下で述べるようなことは意外と報道されていないので、もしかしたら「知ってるつもり」になっているかもしれませんよ。
受賞対象は小説だけに限らず、詩や戯曲なども含まれる
まず、意外かもしれませんが受賞対象のジャンルは「小説」だけに限らず、「詩・戯曲・評論・哲学」なども含まれます。
日本人で受賞している川端康成と大江健三郎はどちらも小説家で、かつ候補としてたびたび名前が挙がる村上春樹もまた小説家であることから、小説家のための賞と誤解されがちなのです。
実際、過去の例で著名なところだと、1953年受賞者のチャーチル(イギリスの首相)が自伝によって、2016年受賞者のボブ・ディランが詩(歌詞)によって栄誉を勝ち取っています。
チャーチル(出典:Wikipedia)
ただ、実際のところ受賞者の割合は小説や戯曲、詩作家がやはり多めで、上記のような例が少数派であることは間違いありません。
候補者の名前は明かされず、受賞者本人も発表まで知ることができない
先ほどから何度も例に出している村上春樹をはじめ、世界には何人も「ノーベル賞候補者」と呼ばれる作家が存在します。
しかし、選考の過程で候補者となった人物が公開されることはないため、いわゆる「候補者」が実際に選考対象となったかは不明であり、彼らはあくまで「過去の受賞者傾向と実績的にノーベル賞を受賞してもおかしくない『候補者の候補者』」でしかありません。
そのため、候補者と目された作家は、自分が選考フローに乗っているかも分からないまま「受賞ならず!」と報道されてしまうのです。
作家の立場からすれば、能動的に応募したわけでもないうえに候補になっているかわからない状態で「落選」を告げられるため、いい迷惑だと思っているかも。
ちなみに、いわゆる「受賞候補者」たちは何を根拠にそう言われるかというと、イギリスのブックメーカー各社が文学賞受賞者を賭けの対象にするため、そこで出されたオッズを一種の指標とすることが多いです。
本年度でいえば、村上春樹は一部オッズで候補者第3位に支持されていました。
受賞するのは「作品」ではなく「作家」単位
文学賞といえば、通常は「作品」に対して与えられるものです。
これは日本最高の純文学賞である「芥川賞」、同じく日本最高の大衆文学賞である「直木賞」にも言えることで、大規模な賞から学校レベルの文学賞に至るまで、基本的には作品が対象となります。
ところが、ノーベル文学賞は「作家」を単位に賞が与えられるため、大きく言えばその人物の全作品が評価されるのです。
したがって、「候補者」たちは一つの作品だけでなく全作品を含めた総合評価によって賞を勝ち得ているということになります。
もっとも、後述するヘミングウェイのように、受賞時に公表される受賞理由の時点で明らかに「この作品がキッカケで受賞したんだな」と分かる場合もあります。
ただし、それらはあくまで受賞理由の一つに過ぎないため、厳密にいけば「ノーベル賞受賞作」というものは存在しないと言えるでしょう。
ノーベル文学賞を受賞した作家の本、本当に読むべき?
さて、ここまでで「ノーベル文学賞に関する誤解」をいくつか解決できたことと思います。
しかし、あえて上記では触れなかった「そもそも、どのような作家が文学賞を受賞できるのか」という点、皆さんはご存知でしょうか?
その答えはノーベル賞全体に共通するものであり、ノーベル本人が示した
「人類の福祉にもっとも具体的に貢献した人」
に賞を与える、というものです。
ノーベル(出典:Wikipedia)
これを文学賞に最適化すると「最も文学界の発展に貢献した人」に与えられる賞ということになり、恐らくこれこそが文学賞の受賞資格なのではないかと思います。
実際に文学賞を受賞した二人の日本人に与えられた受賞理由の文面を見ていきましょう。
川端康成は、
「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため」
大江健三郎は、
「詩趣に富む表現力を持ち 、現実と虚構が一体となった世界を創作して 、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている 」
と評価されており、この文面から「世界に対する感銘」や「現代人の苦悩表現」というような、抽象的かつスケールの大きな「世界への影響力」が必要とされていることを理解できるでしょう。
が、この受賞理由からは、我々が本を選ぶ際に必ずといっていいほど重視する「ある視点」が抜け落ちています。
それは、「自分自身にどれだけ影響を与えてくれそうか」、より分かりやすく言えば「その作家は読んでいて面白いのか」というミクロな視点です。
ノーベル文学賞は良くも悪くも「世界の人々や文学界」という大きな領域に対する影響力を評価しているので、その作家が一人の人間に与える「魅力」はあまり評価されていない節があります。
つまり、何が言いたいかといえば「ノーベル文学賞受賞作家の作品が、読んでいて面白いとは限らない!」ということであり、同時に「ノーベル文学賞を受賞していないからといって、作品の面白さが否定されるわけではない!」ということです。
その理由はもうお分かりですよね?
以上の点から、「ノーベル賞作家の作品は必ずしも面白いわけではない=必ずしも読むべきとは限らない」といえるでしょう。
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