『銀河鉄道の夜』の感想・考察!(ネタバレ有)
以下は、作品の重要な結末に触れています。しかし、その内容は個人が感じた感想に過ぎません。
願わくば皆さん自身で本作を一度読んで頂いて「賢治がこの物語に何を託したかったのか」を考えて貰えたら幸いです。
数多くの心躍る「造語」が人気のカギ?
先ほども触れたように、本作は後年になって評価され、今なお高い人気を誇ります。
そんな今作が世代を超えて評価される大きな一因は、作中で特定の地域や文化を感じさせない「謎めいた普遍性」にあるのではないでしょうか。
「ジョバンニ」や「カンパネルラ」「ザネリ」など日本ではないどこかを思わせるネーミング、「天気輪の柱」や「ケンタウル祭」といった不思議な賢治の造語たちは、国や時代を限定しない世界観を作り上げています。(ただ、この様な点が先ほど申し上げた、当時のトレンドになれなかった理由の一つでもあるかと思います。)
さらに、この作品のテーマ自体がいつの時代でも共通するテーマであるため、今の私たちが読んでも心に響く作品なのだと思います。
銀河鉄道は「他人の幸い」を本気で願える人たちの乗り物?
本作は、「賢治の宗教に対する理想」と、「愛する者との別れにどう向き合うか」が描かれた物語だと思います。
二人が乗り込む銀河鉄道は、言ってみれば死者をあの世に運ぶ乗り物です。カンパネルラの服が初め濡れたように光っていたのは、物語の最後に溺れたザネリを助けたからですが、そこには一貫して自己犠牲の精神が描かれています。
銀河鉄道の旅の途中、電車に乗ってくる青年と少女・かおる子、そして少年の三人はあの沈没した豪華客船・タイタニック号に乗っていたと予想されています(氷山にぶつかったという発言や、賢治がタイタニックの資料を集めていた記録があるため)。
タイタニック号(出典:Wikipedia)
この三人は、他の人の命を助けるため自分たちはボートに乗らなかったと言っています。また、かおる子が語るサソリの話でも「自分の命を捨ててイタチの糧になってやればよかった」と、「まことにみんなの幸い」のために自分の体を使って欲しいと思ったがゆえに、夜の星座になったと語られていました。
彼らは皆、人のため自分を犠牲にしましたが、全員「天上」へ行くか、空に浮かぶ美しい星座になる事ができました。
少し話は逸れますが、『農民芸術概論綱要』(賢治が書いた農民の生活指針のようなもの)の中に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とあります。
つまり、彼は「自分だけが自分の幸せだけを考えていると、結局他人を出し抜いたりしてみんなが幸せにならない。人の幸せを本気で願える様になって初めて全体が幸福になり、個人個人も幸せになれる」と言うのです。
したがって、銀河鉄道とは「人の幸せを本気で願える人だけに乗れるもの」ではないかと思います。そして、乗客それぞれが幸せを感じられる終着駅に運ぶため、運航しているのではないでしょうか。
さまざまな宗教を超えた先にある「本当の幸い」
本作には、多くのキリスト教を連想せせるキーワードがでてきます。「十字架」や「ハレルヤ」「バイブル」などなど。そのため、本作は「キリスト教の自己犠牲の尊さを解いているのか?」と思いがちですが、私はそうではないと考えます。
作中で、ジョバンニとかおる子が、「ほんとうの神様」について話し合う場面があります。明らかに2人の意見は食い違っており、最期まで結論が出ないままかおる子たちは途中駅で下車してしまいました。
この描写は、賢治が「どのような信仰を持っていても、自分を犠牲にして人のために良いことをすれば必ず報われる。そこに信仰の差はない」ということを伝えようとしたのではないかと思います。
本記事の前半で、賢治が様々な宗教について知見を持っていると書きました。彼は多くの宗教を学ぶ中で「教義や成り立ちなど些細な違いはあれど、または明確な信仰を持てていなくても、人の事を思いやっていれば必ず報われる」という結論に至ったのではないでしょうか。
多くの宗教に触れた、実に彼らしい考え方だと思います。
なぜカンパネルラはジョバンニと道を違えたのか?
本作については、抽象的な内容を読み解こうと奮闘した研究者たちによる研究論文が多くあります。
その中で「カンパネルラは一体誰をモデルにしているのか」については、賢治の死別した妹の「トシ」とする考察が多いことで知られています。
幼き日の宮沢賢治と宮沢トシ(出典:Wikipedia)
しかし、私はカンパネルラという存在を「大切だけど別れなくてはいけない何か」の象徴だと考えました。
賢治は自らの人生の中で、多くのものと決別してきました。妹の死別、父との軋轢、親友との別れ、信仰、自分の考えとわかり合えない人たち。
そういった人たちであっても、良い行いをすれば銀河鉄道乗ることはできます。
が、最後にカンパネルラはジョバンニとは全く違う場所で列車を降りてしまいました。これは、考えに違いがあったり、止む負えない理由があったりして、それぞれ別の道を歩いて行く人たちを暗に表現しているのではないかと思います。
カンパネルラとジョバンニは親友です。二人が道を違えたのは、決して埋められない溝ができてしまったからではないでしょう。
それでも、その人にとっての幸せが自分と違う所にあるならば、名残惜しくも旅立ちを見送ってあげなければならない時がある。
賢治が生涯を通じて経験してきた「別れ」を反映したようなワンシーンであり、本作ではそのような「別れの重要性」を説いているように思えます。
まとめ
ジャンルとしては児童文学として分類される『銀河鉄道の夜』。
しかし、その内容を理解しようとすると難解さに直面し、一流の研究者でも大きく解釈が分かれます。これは、本作が読む人の見方によって様々な考えができる、面白い作品だということを示しているのでしょう。
そのため、読んだことがない方は、この機会にぜひ一読して自分なりの「銀河鉄道解釈」を試みてください!
【参考文献】
西田良子『宮沢賢治読者論』 翰林社
大塚常樹『宮沢賢治心象のコスモロジー』 朝文社
山折哲雄『デクノボーになりたい私の宮沢賢治』 小学館
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