高慢と偏見の感想・分析(ネタバレ有)
ここからは、本作に関する解釈や考察を含めた感想を述べていきたいと思います。
なお、記事の構成上多くのネタバレを含みますので、その点はご了承ください。
「高慢」と「偏見」をめぐる、タイトル通りの物語
まずこの作品を読んでいて感じたことは、本当に秀逸なタイトルが付けられているということです。
作品としては、基本的にエリザベスが「偏見」を抱き、一方のダーシーが「高慢」に振舞うことで進行していきます。
エリザベスとダーシー(出典:Wikipedia)
しかし、ダーシーの求婚をエリザベスが豪快に振ってからというもの、エリザベスは「偏見」に、ダーシーは「高慢」に気づき、それぞれが歩み寄って最終的に結婚することになるのです。
物語がエリザベスの視点で進行していくことから、私は割と早い段階で「客観的なダーシーはそれほど悪人には見えない」と感じました。
というよりも、彼女が自身と接した印象以上に「周囲の評価や伝聞」から大きな影響を受けていることが明らかだったので、「そんなに簡単に人物評価を固めてしまって大丈夫か?」と思いましたが、中盤以降は案の定…。
ただ、個人的にはエリザベスが偏見によって「自分なりのダーシー像」を作り上げていく前半部がこの作品の見どころだと感じました。
周囲のもたらした情報や風潮に呆れを覚えつつも、実際はそれに翻弄されていくエリザベス。
まるでノンフィクションのように積み上げられていく偏見は一読の価値ありでしょう。
もっとも、中盤以降はいろいろと丸く収まってハッピーエンドに終わるわけですが、私としては「物語のすべてがエリザベス視点に過ぎない」という事実は見逃せないと思います。
確かに、ダーシーはよくよく事実を整理していくと紳士的な男性でしたし、他の登場人物もおおむねエリザベスの評価通りに貴賎が表れているような気はします。
しかし、そうした周囲の光景や評価はあくまで「エリザベスの偏見」がゼロではないということを認識しなければなりません。
特に彼女は「いったん思い込むと止まらない」タイプの女性なので、果たして本当に彼女が絶賛したダーシーが高慢を捨て去っているのか、つまり「この作品は本当にハッピーエンドなのか」ということを考えてみるのは面白いでしょう。
我々もまた「偏見」に惑わされてはいけませんからね。
皮肉の効いたユーモアが非常に面白い
この作品は、先にも触れたように良くも悪くも「イギリス的」な作品です。
それゆえか、文中で発せられるセリフの数々ににじみ出る皮肉の効いたユーモアが読んでいて非常に愉快でした。
私が特に覚えている一文は、エリザベスがダーシーに対して
「あなたって完璧な人ね。それを自分で認めていらっしゃるんですもの」
というようなことを言っていたシーンです。
ここには「自分を完璧だなんて表現するあなたは驕り高ぶったうぬぼれ野郎」というニュアンスが含まれているのも明らかで、こうしたユーモアは作中随所に散見されます。
実際、作者のオースティンも「ユーモア」については生涯を通じて重きを置いていたようで、彼女は
「自分や他人を笑いのネタにできないなら、死んだほうがまし」
とまで言い切っているほど、ユーモラスであることを矜持としていました。
今日の「少女漫画的構造」が強く表れている
これは記事のサブタイトルにも示した分析なのですが、本作は「今日の少女漫画的構造」をしていると考えられます。
そもそも「身分違いのラブコメ」というだけで分かる人には分かる「王子様」の存在が示唆されていますし、他にも
・主人公(エリザベス)に言い寄るかませ犬(ミスタ・コリンズ)
・主人公と王子様(ダーシー)の恋路を邪魔するライバル(ミス・ビングリー)や親族(レディ・キャサリン)
・高慢な王子様の態度を受け入れず、いったん振る
・「実はいい人」ということに気づき惚れていく主人公と、振られたショックで態度を改める王子様
・最後は身分の差を乗り越えてめでたくゴールイン
まとめ
ここまで、オーズティンの傑作小説『高慢と偏見』の解説を行ってきました。
確かに我々現代の日本人には分かりづらい結婚観や階級制度が作中には登場しますが、一方で「少女漫画的」な物語構造は非常に親しみやすいハズです。
21世紀に入ってからも英語圏では人気の作品なので、ぜひ抵抗感を覚えずにトライしてみてください!
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