本作は「ソクラテス裁判」の記録として執筆された
ソクラテスの弁明というタイトルからわかるとおり、この本は主人公ソクラテスが裁判で自らの罪の言い訳をする内容です。
アテナイの民衆裁判所遺構(出典:Wikipedia)
ソクラテス2つの罪を犯したとして告発されました。それは
・みんなが信じている神を信じなかった
・青少年を惑わして悪い方向へ導いた
というもの。
この中でソクラテスは、自分の無実を訴えていくわけです。
ですが「悪事を成したと訴えられる、そして言い訳をする」というと、ネガティブな響きですよね。
現代でも、自分が当事者にならなくても、ニュースやドラマなどでこうした場面を見ることは多いでしょう。
その中で被告人席に立たされる人は、オドオドしたり、虚勢を張ったり、どちらかというとカッコよくないイメージではないでしょうか。
ところが、この被告人ソクラテス。罪を問われて、それも、死刑になるかもしれないという重い裁判にも全く怯みません。
罪を告発した者に対して、正々堂々真正面から反論し、徹底的に論破していきます。この辺り、かなり痛快です!
それどころか、自分の罪を裁くべく集まった500人の裁判員に対しても、恐れることなく正論をぶつけます。この辺りはちょっとやりすぎかも…。
しかし、実直なソクラテスの物言いをまねできるかというと、それは難しいです。
実際、私は正論だと思っても口に出して言えないことが多いのですが、みなさんにも思い当たるフシがあるのではないでしょうか。
自分では正しいと思っていても「絶対正しいんだな!?」って言われると、そこまでの自信はないし、いや、自信があったとしても、相手を「怒らしちゃうかな、傷つけちゃうかな」とか思って、ついつい黙ってしまう。みなさんもありませんか?
ソクラテスは、そんな心配1mmもしていません。とにかく思ったことはズケズケと。それに、自分が思っていることは絶対に正しいという確信があります。なぜなら神さまが「お前は最も賢い」とお墨付きをくれているからです。
ソクラテスの広めた「無知の知」の教えとは「知らない」を自覚すること
ソクラテスの有名な教えに「無知の知」というものがあります。
この言葉、なんだかちょっぴり意味不明ですよね。
初めて聞いたときには、「え?知ってるの?知らないの?結局どっち!?」と思ってしまいました。
「無知の知」とは、一言で言うと「知らないことを知っている(自覚している)」ということに尽きます。
ソクラテスに言わせれば、
「世の人たちは、モノゴトを本当は分かっていないのに、分かっていると思い込んでしまっとるのじゃ。分かっていると思い込んでいるから、これ以上知ろうとしない。よって、モノゴトのホントウのところを知ることができないのじゃ。残念じゃのう」
ということのようです。
ただし、1つ注意してほしいことがあります。
これ、私が時々やってしまうことなのですが、人と話していて自分が知らないことを聞かれたときに、
「え?う、うん。し、知ってるよ。そうそう、あ、アレのことね…」
と、知らないと思いつつ、知ったかぶりしてしまうことがあります。
これは確かに良くないことです。
が、ソクラテスがいましめているのは「知ったかぶり」ではありません。
ソクラテスは、
「ホントウはきちんと知らないのに、知っていると(誤って)勘違いしている。知らないことに気づいていないことがイカン!」
と言っているようなのです。
彼は、自分が知らないということを自覚する「無知の知」によってこそ、ホントウに正しいことに近づけるのだ!と説きます。
一見難しい思想ですが、現代人にも欠かせない視点だと思いますね。
結局、ソクラテスはなぜ告発されてしまったのか?
ここまでで、
「どうしてソクラテスは告発されたのかな?何も悪いことはしてなさそうなのに…」
と疑問に思った方もいるでしょう。
この辺りのことにも触れておきたいと思います。
上で少し解説した「無知の知」という教えですが、ソクラテスがこのことに気づくには1つの大きなきっかけがありました。
実は、ソクラテスはアテナイの神様から
「ソクラテスが一番賢いよ!」
というお告げを聞かされたのです。
こんなお告げを聞いたら、私であれば「ヤッタネ!」と飛び上がって喜んでしまいます。
ですが、ソクラテスは違いました。
ソクラテスは、
「自分は何も知らないのに一番賢いなんて、そんなはずはない。でも、神様がウソのお告げをするはずはない。むむっ」と困ってしまいます。
素直じゃないどころか、ちょっと変人ですね。
そして、自分が賢くないということを確認するために人々を訪ねるのです。かなり変人です。
実際には、政治家や詩人、職人の元を訪ねて教えを乞います。ですが、あまり収穫はありません。
「彼らは、得意気にさも知っているように話しているけども、ホントウのところは分かっていない。しかし、ワシもホントウのところは分かってない」
訪ねて行った専門家、もソクラテス自身も大事なことは分かっちゃいない。途方に暮れかけたときに、ハッ!と気づいてしまうのです。
「そうか!ワシも彼らもホントウのことは分かっちゃおらん。しかし、ワシは自分が分かっとらんということには気づいておる。そこが違うのだ!」と。
まさに「無知の知」に気づいた瞬間でした。
人類にまたとない叡智をもたらした、偉大な発見です。
こうして、ソクラテスは「哲学の父」と呼ばれるようになりました。
しかし、ソクラテスの「実践を重んじる心」が、彼を告発される身へと変えてしまいます。
彼は自分の哲学を世のために役立てようと、町に繰り出し、人々を捕まえては議論をするようになりました。
そして、その議論の仕方もソクラテスならではの画期的な、そしてちょっとネチッこい方法でした。
例えば、勇気がテーマだとしたら、
ソクラテス「勇気とはなんだろう。勇気は素晴らしいものかね。教えてくれたまえ」
軍人「勇気とは恐ろしいものに立ち向かっていくことだ。もちろん素晴らしいものだ」
ソ「なるほど、では、この前3丁目でドロボウが警察に囲まれて暴れていたが、あれは素晴らしいことかね」
軍「いや、それは素晴らしいことではない」
ソ「ドロボウからすれば警察は恐ろしい。立ち向かったのに素晴らしくないとはどういうことかね」
軍「え、えーと、それはですね、うーんと…」
…かなり嫌らしい攻め方です。
彼がこうした議論を好んだ理由は、質問をすることで、相手を議論の袋小路に追い詰めて、無知を自覚させるためでした。
このやり方を問答法とか産婆術と呼びます。産婆術というのは真理を生み出すということと、ソクラテスの母親が産婆さんだったことからこう呼ばれています。
恐らく、問答法によってたくさんの人々がソクラテスにやり込められたのではないでしょうか。そんなソクラテスの姿に、「すごい!」と感動した若者も多かったようです。若き日の大哲学者プラトンもこの裁判を見ていました。
ただ、やられた人はたまったものではないでしょう。
ホントウの正しさの追求のために、多くの人の不興を買った面もあると思います。きっとこうした恨みが積み重なりソクラテスの告発に至った。なんとも言い難い、やるせない話ではあります。
まとめ
ここまで、古代の哲学の名著『ソクラテスの弁明』について解説してきました。
自分の信念に従い、果敢に行動し、哲学に殉じたソクラテス。
多くの人に慕われ、また憎まれ、後世に莫大な影響をもたらしたソクラテス。
この作品を書いたプラトンは、ソクラテスの弟子であり、師匠ソクラテスを大変に崇拝していたようです。ですので、この作品に現れているソクラテスが、100%実在のソクラテスと同じかというと、微妙な点はあるかもしれません。
しかし、ソクラテスの個性や当時の状況、哲学の教えなど様々なことを余すところなく伝えてくれます。
この作品は私たち一人ひとりに「正しさとは何か」、「よく生きるとは何か」という現代でも決して色あせることのない根源的な問を突きつけてくる、文句なしの名作です!
\500作以上の古典文学が読み放題!/Kindle Unlimitedを30日間無料で体験する!
コメント