桜の園の感想・考察(ネタバレ有)
ここからは、本作に関する解釈や考察を含めた感想を述べていきたいと思います。
なお、記事の構成上多くのネタバレを含みますので、その点はご了承ください。
言われてみると喜劇性も感じられる
さて、まず私自身の初見で感じたことを率直に述べると「いや、これで喜劇を自称するのはあんた相当ひねくれてるよ」としか思えませんでした。
実際、ラネフスカヤの浪費癖は治らず、桜の園はロパーヒンの手にわたってしまい、彼らは逃げるように土地を追い出される。
と、基本的に全くといっていいほど救いがありません。
そのため、出来事をベースにこの作品を読んでいくと、最初のうちに喜劇性を見出すのは極めて困難でしょう。
しかし、読了して少し経ってから改めて出来事ではなく登場人物たちの行動や言動を振り返ってみると、確かに一定の喜劇性を感じられるということに気づいてきました。
例えば、先に触れたラネフスカヤの浪費癖などは喜劇性を見出しやすいかもしれません。
一見すると「浪費が止められない」ということを没落と関連させて悲劇的に考えがちですが、よく分析していると「いや、よく考えたらお前なにやってんのよ」という滑稽さも内包していることに気づきます。
私お金がないの!借金しなきゃ…
→でも桜の園は売りたくないし、ぜいたくもするし、ダメ男を愛してやみません!
という図式は、もう一種のギャグとして完成されてしまっているのです。
実際、先の図式にもう一つ「いや、お前何やってんねん!」とツッコミを加えれば、見方によっては漫才のような楽しみ方ができるでしょう。
つまり、この作品を読みながら自分なりにツッコミを加えていくと、チェーホフが意図したような喜劇としても楽しめるのかも?
作品のオチは本当に希望に満ちた再出発なのか?
この作品のオチに関しては、「ラネフスカヤや桜の園といった旧世界と決別した若い男女が、希望に満ちた前途を目指す」というような解釈が定説としてなされているようです。
実際、本作の作品解説を読むと、
「交代する新旧2つの勢力を描き,古い家,生活を捨て,大学生トロフィーモフと手をたずさえ,新しい生活に飛込んでいく夫人の娘アーニャに未来を託している。」
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小百科事典
「だが夫人の末娘アーニャは、桜の園によって象徴される旧世界との決別をむしろ喜び、革命家ともとれる万年大学生トロフィーモフと手を取り合って、新しい世界へと飛び出して行く。」
出典:日本大百科全書
こういった意見が目立ちます。
確かに、本文を読んでいくと第3幕では二人の関係性がクローズアップされていますし、桜の園を後にするアーニャが上機嫌なのも事実です。
しかし、個人的には上記の解説文が触れているような「未来への希望」というメッセージは、あまり感じられませんでした。
なぜなら、この作品において描かれる二人の関係性は「未来志向」ではなく「逃亡」だとしか思われないからです。
実際、万年大学生で禿げ上がってしまったトロフィーモフと、没落しつつある「家族」を離れたいアーニャ。
二人はある意味で現実を直視していないところがあると思いましたし、同時にその前途が明るいものであるとも思われません。
しかし、そうした客観的評価を下せるにも関わらず未来に向けて嬉々として出立しようとする二人の姿を、チェーホフはある種の「滑稽さ」を象徴するものとして描き出したのではないでしょうか。
こう考えていくと、一見して希望に満ち満ちた彼らの存在も含めて笑いの種であり、ここにチェーホフが言うところの「喜劇」としてのメッセージが込められているように感じます。
まとめ
ここまで、チェーホフの描き出す「悲劇のような喜劇」を解説してきました。
彼の作品は短編が非常に多く手に取りやすいという特徴もあるので、気になったものにはぜひ積極的にトライしてみてください。
彼の言うところである「喜劇」が、果たして本当にそうなのか。
ぜひ、皆さんなりの解釈を講じてみてください。
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