文学はいつから「古典」になるのか?日本文学の分類から検証してみた

古典入門
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当サイトは「古典文学」を専門とした構成になっていますが、皆さんはそもそも「いつから文学は古典になるの?」という問いに答えることができますか?

もはや日常に溶け込んでありふれた言葉と化している「古典」という表現ですが、その定義をつきつめていくと意外と奥が深いことを痛感します。

そこで、この記事では日本文学史を例に、「文学はいつから古典になるの?」という問いを検証していきたいと思います。

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一般的には「明治時代以降の文学作品」と認識される

さて、まずは「文学はいつから古典になるの?」という問いに対する、一種の「正解」を述べてしまいましょう。

結論から言えば、一般的には「江戸時代までに描かれた作品を指す」というのが定説となっています。

実際、百科事典で「古典文学」と調べてみると、次のような一文が目に留まりました。

日本ではふつう近代文学に対して江戸時代までのものをいう。

出典:デジタル大辞泉

日本では近代文学に対して、江戸時代までの文学をさしていうことが多い。

出典:大辞林

日本で、近代文学に対して、主として江戸時代までの文学をさしていう。

出典:日本国語大辞典

以上の裏付けから、やはり事典類における定義としては「江戸時代までのものを指す」と考えて間違いないでしょう。

さらに、この定義づけについては、文学ファンの間にも広く浸透しているといえます。

実際、当サイトのツイッターアカウント(@koten_ibuki)にて「いつ頃の作品を古典と考えますか?」というアンケートを実施したところ、次のような結果となりました。

実に78%の方が「江戸時代までの作品」と回答しており、事典だけでなく文学ファンの認識も同一であることがわかるでしょう。

以上の点から、やはり「日本における古典文学=江戸時代までの作品」という回答が、一種の「正解」であることは間違いありません。

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独自の「古典文学に対する定義」も確認できた

先で「日本における古典文学=江戸時代までの作品」という解釈が一般化していることは確認できましたが、一方で「自分なりの古典文学定義」を行っているという意見も寄せられました。

先ほどのツイッターアンケートを行った際、普段は朗読家・詠み手として活動されていらっしゃる二鳥はる様(@O9wfD5x43wHqPyy)より、次のようなご意見を頂戴しましたので引用にてご紹介します。

二鳥様は「江戸時代以前の作品を近世文学・明治時代以降の作品を近代文学」と定義しながらも、「明治20年ごろの言文一致運動」の成立をもって「近代文学」が産声をあげたと解釈されています。

これは先で見てきたような一般的な定義とは異なりますが、個人的にはかなり妥当な解釈だと考えたいです。

実際、明治初期の文学作品は江戸時代のそれと文学的特徴がそう変わっておらず、実態を正確に反映しないまま政治史的な時代区分をそのまま文学史に持ち込んでしまっているという印象も否めません。

一方、国語・日本史の教科書などでは「二葉亭四迷が言文一致の作品を世に送り出した」という一文が必ずといっていいほど記されており、この出来事が日本近代文学に与えた影響は多大なものがあります。

そのため、「言文一致をもって近代文学と定義する」というのは、極めて理にかなった解釈なのです。

さらに、これまでとは全く異なる解釈もご紹介しておきましょう。

ツイッターで約2.7万人のフォロワー数を有している「古典bot ~140字で読む文学・哲学〜」様(@classicalL_P)は、紹介する基準を「作者が鬼籍に入っていれば基本的に古典です」と明言されています。

これは一見すると少々強引な解釈にも思われますが、確かに作者の死後も読み継がれている作品は「古典」と呼ぶにふさわしいとも考えられ、さらに時代の変遷にも対応できる柔軟な定義という一面も。

以上のように、古典文学を愛する方の中には、自分なりに「古典」の範囲を定義されていらっしゃる方も多いということがわかります。

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万人共通の画一的な「古典」の定義は必要か?

ここまでの内容から、日本文学だけに限定しても「古典」の定義は様々に存在することはわかりました。

では、その中から「正解」を選びましょう。

…と、ついつい言ってしまいたくなります。

しかし、個人的な意見としては「便宜的に一般的な共通認識が必要なのは仕方がないが、そのほかの解釈を『間違い』とする理由はない」と言いたいです。

実際、いざ「日本における古典文学」と言われたときにイメージするものが極端にズレているのは問題ですが、先ほどから見ているように一般的には「江戸時代までの作品」を指すという認識がかなりの割合で共有されており、「ラベル」としての機能は十二分に果たしています。

だからこそ、上記の定義を踏まえたうえで、自分なりの「古典文学の定義」を見出すことは全く問題ないですし、むしろ「自分の文学観」を見直す非常によい機会になるでしょう。

ですので、「古典と呼べるのは平安時代まで!」と解釈してもいいでしょうし、「後世に残りそうな素晴らしい作品は古典だ!」と解釈するのも自由なわけです。

もっとも、その解釈が一般に支持されるか否かは、全く別の問題でもありますが。

私にとっての「古典文学」とは?

ここまで、「文学はいつから古典になるの?」というテーマのもと、様々な観点から「古典文学」という概念に対する解釈を行ってきました。

では、最後に「私にとっての古典文学」が、いったいどのように定義されているかをお話ししてから記事を締めたいと思います。

これについて、私は「おおよそ3世代にわたって読み継がれた文学」と定義するのがベストである、と考えます。

その心を説明していきましょう。

まず、私は古典文学を定義する以前に「古典」という用語そのものがどのような意味を有しているのか、これを調べたことがあります。

その中で、私の言いたいことをまとめてくれていた一文がこちら。

作品の実例に相違があっても古典が普遍性・規範性を含意すると考える点で共通している。

要するに、時代や民族や場所などとは無関係に、教養の基礎となり、創作や鑑賞の規準となり、研究や批判に耐えるような創造的な作品、精神的活動の典範となるべき根源的・基礎的価値をもつ作品が古典とよばれるのである。

出典:日本大百科全書

少し難しい表現になっていますが、まとめると「いつの時代や場所においても愛され、後世でも研究や批判の価値があるような作品」ということになります。

この解釈を目にしたとき、私は「普遍性を裏付けるにはどうしたらよいか…」と考えました。

その結果、やはり「時代を越えて読み継がれている」という点に深く着目するべきであると考えるようになったのです。

時代が変われば価値観が変わり、社会が変わり、そして人が変わります。

それでも読み継がれる作品こそが、「古典」の称号を与えられるにふさわしいのではないか、と。

がしかし、仮にこの解釈を採用する場合「どのくらい読み継がれたら古典なのか」という問題が生じます。

そこで考え出した私なりの基準が「3世代」という期間だったわけです。

なぜ3世代なのかといえば、一人が読み、その子世代が読み、またその孫世代が読むような文学には、やはり共通の普遍性があると感じたから。

これが2世代だと時間的感覚が近すぎますし、3世代読み継がれる作品は4世代目にも読み継がれるような気がしたからです。

実際、例えば今から60年前ごろに出版され、現代でも読み継がれている作品を挙げると、以下のようになります。

・三島由紀夫『金閣寺』(1956年刊行)

・松本清張『点と線』(1958年刊行)

・安部公房『砂の女』(1962年刊行)

・遠藤周作『沈黙』(1966年刊行)

・大江健三郎『万永元年のフットボール』(1967年刊行)

いかがでしょう?
個人的には、どれも「古典」と呼ぶにふさわしいクオリティを兼ね備えているように思えますし、恐らく我々の子供世代にも読み継がれていくのではないでしょうか。
大江健三郎だけはまだ尊命ですが、生前の功績から後世でも語られ続けることは間違いないでしょうし、個人的にはかなりいい線引きだと感じています。

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