『ペスト』の感想・考察!(ネタバレ有)
ここからは『ペスト』を読んだ私自身の感想を書いてみたいと思います。なお、記事の性質上多少のネタバレがありますので、未読の方はご注意ください。
世界の混乱を尻目に利を得る人物がいることを指摘
ペストの蔓延とともに街も人々も疲弊し、悲しみに包まれていく中で、まるで場違いに喜んでいる人物が一人だけいました。その人物は、ペストの発生直前に自殺未遂をした犯罪者・コタールです。
コタールは自分の犯した犯罪によって追われており、逮捕が間近に迫った恐怖から自殺を図るものの失敗。しかし、その直後にペストが広まり、町は混乱して行く中、誰もコタールの逮捕など気にも留めなくなるのです。彼にとっては、まさに僥倖と言えるものでしょう。
カミュの物語は、救いのない不幸な状況の中で、その不幸な状況ゆえに喜ぶ者の存在を見逃しません。どのような過酷な状況でも、それを喜ぶ者が居る。人々が苦しむがゆえに甘い果実を得る者がいる。
このような現実は確かに私たちの生活のなかにあります。世界を混乱の渦に巻き込んでいる新型コロナウイルスでさえ、それは例外ではないでしょう。ただ、普段の生活の中で、このようなことは見過ごされたり、見て見ぬふりをされたりしてしまいます。比較的自由度の高い文学の中でさえ、それを指摘する声は多くありません。
それをやってのけるところがカミュの洞察力の神髄で、それが物語の奥深さ、リアリティを作り上げているのではないでしょうか。
善き人が救われない不条理
この物語において重要な人物の一人に、最初にペストに気づいた医師のリウーがいます。彼の妻は結核のためペストの舞台となるオランを遠く離れたパリで療養するのですが、そのためにペストを避けることができました。
しかし、事態が収まりオランの町に日常が戻ってくる矢先、妻は結核で亡くなってしまいます。
私は、ここに最大の不条理を感じました。
医師の妻でありながら、結核を患うという不条理。結核のため、夫婦が離ればなれになりながら、そのためにペストの危機を回避できたという不条理。ペストの危機が去りながら、結局は結核に倒れるという不条理。
なんとも救われない物語ですが、人が生きていくという現実を突き詰めるとこういうことになってしまうのかもしれません。
現代でも、昼夜を問わず夢の舞台に向かって鍛錬を積み重ねていた高校球児たちの晴れ舞台・センバツが中止になってしまいました。ただひたむきに突き進んできた彼らに、いったい何の罪があったのでしょう?
しかし、運命は残酷にも新型コロナウイルスを流行させてしまいました。カミュの描く不条理は、皮肉にも今なお全く色あせることがありません。
難解ながら美しい表現も見どころのひとつ
作品紹介の項目でも書きましたが、この小説は難解で読みにくい部類に入ると思います。それは、作者カミュの思想の難しさに由来する部分もありますが、もう一つ、盛り上がりに欠けた淡々とした文章も原因かも知れません。
正直、私も読みながら眠くなったり、飽きてきた部分もありました。人気作家のミステリーのように、手に汗握り、ページをめくる手が止まらないというタイプの本ではありません。
ただ、そうは言っても、さすがノーベル賞作家。目を見張る美しい表現や、覚えておいて使いたくなるようなフレーズも随所にみられました。このような表現に触れることも、この作品を味わう一つの大きな楽しみだと言えます。
私自身のお気に入りの表現として、次の部分を紹介したいと思います。これは物事の語り手と、その受け手の気持ちのズレを表現したものです。
「相手に伝えたいと思うイメージは、期待と情熱の火で長い間煮つめられたものである。
これに反して相手のほうは、あり来たりの感動や市販の商品みたいな悲しみや、十把ひと
からげの憂鬱などを心に描いているのである」『ペスト』カミュ著 宮崎嶺雄訳 新潮文庫p109
まとめ
ここまで、カミュの『ペスト』について解説してきました。
ペスト…不条理…このようなテーマを扱いながらこの本の読後感は決して悪いものではありません。救われない、哀しい物語を描きつつ、そこに必ず希望の灯りが灯っている。不条理を描きつつ、それを受け入れよりよく生きることを模索したカミュの思想の温かさ故ではないかと思います。
私自身、この本を読むことで人生観、世界観というものが大きく変わりました。不条理を受け入れる、というところまでは至っていませんが、耐性はついたように思います。
難解ではありますが、一生の間に取り組む価値のある本。昨今は感染症を描いた本として注目されているので、この機会にぜひ読んでみてはいかがでしょう。
【参考文献】
・ペスト (宮崎嶺雄訳、新潮文庫、2004年)
・猛威を振るう「ウイルス・感染症」にどう立ち向かうのか (監修 河岡義裕・今井正樹、ミネルヴァ書房、2018年)
・哲学・思想辞典 (岩波書店、1998年)
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