『ドグラマグラ』の感想・考察(ネタバレ有)
ここからは、本作に関する解釈や考察を含めた感想を述べていきたいと思います。
なお、記事の構成上多くのネタバレを含みますので、その点はご了承ください。
終わらない無限ループが面白い
本作の大きなテーマは「くりかえし」、つまり「無限ループ」です。
〈私〉は最初に目覚めてから「自分はもしかして、同じことを何度もくりかえしているのではないか…」という疑念にとらわれます。
そしてそれは、正木博士との対話のなかでほぼ確信に近いものとなるのです。
読者の立場からは「この小説の出来事は、記憶喪失の〈私〉が経験する無限ループの一場面ではないか」と読むことができます。
それはなぜか。
胎児が胎内で先祖の記憶を反復する、という仮説。それは「脳がものを考えるところではない」という仮説から導き出されたものでした。
ここでいう「反復」が物語の核になっていることは疑いようがありません。
「呉一郎」は、先祖の経験した強烈な体験がもとになって、正木博士に誘導されて犯罪を犯しました。
しかし、その「呉一郎」を追うのも、逃げる「呉一郎」も、同じ〈私〉であることが暗示されます。
ここで、探偵が犯人であり、犯人が探偵である(もうひとつ、被害者である)という、探偵小説の形式自体をパロディ化した小説の枠組みが見えてきます。
「考えるところではない脳」が「考えてしまう」。無限ループが、この小説をつらぬくテーマであるゆえんです。
というより、むしろ「探偵と犯人の堂々巡り」を描くために、「脳はものを考えるところではない」という仮説が立てられたのではないかとも思われます。
『ドグラ・マグラ』という言葉について、作中では「堂廻目眩(どうめぐりめくらみ)」の訛りだとも説明されます。
そして、何のことやらわからない作品、だとも。
これは、「堂々巡りによってあなた(読者)の目を眩ませますよ」という宣言に他なりません。
このあたりが「アンチ・ミステリ」と呼ばれる理由でしょう。
最近のミステリなどに見られる「フィクションである小説の側から読者の存在に言及するような作品」、一言でいえば「メタフィクション」に接している方なら、すんなりと入ってくるのではないでしょうか。
結局、最後まで〈私〉が「呉一郎」だったのかどうか、小説のなかで明確に断言されることはありません。
これは当然といってもいい話。
〈私〉が「呉一郎」という名前を思い出してしまったら、そこで「堂廻目眩」、すなわち「ドグラ・マグラ」が止まってしまいます。
つまり、「いつまでも止まらない、終わらない物語」が『ドグラ・マグラ』とも言えるでしょう。
その終わらない物語が、物語として、小説として『ドグラ・マグラ』を「おもしろい」と言える根拠になります。
当然ながら、ミステリとは「謎」のこと。
その謎が永遠に解けない、謎のまわりをぐるぐると廻っているおもしろさが、本作の魅力であるといえます。
ですから、ミステリが好きな方にも、ミステリに飽きた方にも、ミステリに興味がないという方にも、本作を読んでいただきたい。
もちろん、「もうすでに読み終わった」という方にも、何度でもくりかえし読んでいただきたいのです。
それだけの強度をもった、「小説」としておもしろい作品なのですから。
「ブウウーーーンンン」はくり返されたか?
作中、標本室で〈私〉は一冊の本を手に取ります。
この本には『ドグラ・マグラ』というタイトルがつけられており、「ブウウーーーンンン・・・・・・・・・ンンンン・・・・・・・・・」という第一行からはじまり、「ブウウーーーンンン・・・・・・・・・ンンンン・・・・・・・・・」という片仮名の羅列で終わる、というもの。
この作中に登場する本『ドグラ・マグラ』が、読者が現実でいま読んでいる『ドグラ・マグラ』と同一のものである、と解釈する人は多いようです。
しかし、よく読むと作中『ドグラ・マグラ』と『ドグラ・マグラ』には異なる点があります。
極めて不気味な「ブウウーーーンンン」という言葉を比較してみましょう。
ブウウーーーンンン・・・・・・・・・ンンンン・・・・・・・・・(作中『ドグラ・マグラ』)
・・・・・・・・・ブウウーーーーーーーンンンーーーーーーーンンンン・・・・・・・・・・・・・・・。(『ドグラ・マグラ』冒頭)
・・・・・・ブウウウ・・・・・・・・・・・・ンン・・・・・・・・・・・・ンンン・・・・・・・・・・・。(『ドグラ・マグラ』結尾)
「何だこりゃ」とお思いかもしれませんが、
「ウ」や「ン」、「・・・」の数が微妙に異なっている
ということに気がつくハズ。
謎の擬音が作品において極めて重要なものであると考えると、表現の差は単純な作者のケアレスミスとは考えにくい。
それどころか、明確な意図をもって違いを生み出したように感じます。
この『ドグラ・マグラ』は、円のように始点と終点が同じになるような構造ではない。
始点から円を描くものの、わずかに上のほうにたどりつく。いわば「上昇する螺旋」のような構造の物語である。
…ということを暗示しているのではないでしょうか。
閉じた円環ではなく、つづいてゆく螺旋。
このあたりにも、『ドグラ・マグラ』が終わらない物語である、と言える根拠があるかもしれません。
単純な円環では、完結という「終わり」をしてしまいますからね。
まとめ
あえて言ってしまうのですが、『ドグラ・マグラ』は「奇書」である一方、決して難しい小説ではありません。
確かに、一読して意味の分かりづらいところはあるでしょう。
しかしそれは、作者が意図的に読者を幻惑させようとした結果であり、「わからない」ことこそが正しい読み方であるともいえます。
その分、何度でも楽しむことができ、読むたびに新しい発見がある小説になっているのです。
特に、最近のメディアの発達は、わたしたちに『ドグラ・マグラ』を突きつけてくるかのよう。
一度読んで「ハイ、おしまい」というのではなく、ひとりひとりが自分だけの『ドグラ・マグラ』を見つけられるような読み方をするに値する作品です。
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