本日紹介するのは、久保田早紀によって歌われた屈指の名曲「異邦人」
…ではなく、1942年にカミュによって執筆された小説『異邦人』です。
この作品はカミュの著作に見られる「人間の不条理」を描き出した傑作とされ、彼がノーベル文学賞を受賞した最大の要因にもなったと評価されています。
昨今は彼の小説『ペスト』が話題になっていることからも、この機会に本を手に取ろうという方は少なくないかもしれません。
しかし、分量や表現の点では決して読みずらいでは本ではないものの、そもそも本作に込められたある種の主張や執筆背景を抑えなければ、単に「太陽がまぶしいから人を殺した」だけの小説になってしまいます。
そこで、この記事では1ページ目で執筆背景や作品情報の解説を、2ページ目で感想や考察(ネタバレ有)を述べていきます。
異邦人の基本情報
まず、本作に関する基本的な作品情報を整理しておきます。
作者 | アルベール・カミュ |
---|---|
執筆年 | 1942年 |
執筆国 | フランス |
言語 | フランス語 |
ジャンル | 長編小説 |
読解難度 | やや読みにくい |
電子書籍化 | × |
青空文庫 | × |
Kindle Unlimited読み放題 | × |
異邦人の簡単なあらすじ
「きょう、ママンが死んだ。」
母の死を知らせる電報が、アルジェリアに住む主人公ムルソーのもとへと届けられた。
葬儀のために養老院へ訪れたムルソーは、母の死に何の感慨も抱かず普段と変わらぬ生活を送っていた。
そんなある日、彼は現地のアラブ人たちによるトラブルに巻き込まれてしまう。
ムルソーが取った行動は、驚くべきことに彼らを射殺するというものであった。
こうして殺人者となったムルソー。裁判のため法廷に召喚された彼は、そこで信じられない価値観を披露していくのだった…。
こんな人に読んでほしい
・「サイコパスだ」と言われたことがある
・社会との折り合いに苦労している
・理解できないものへの恐れを味わいたいと思う
異邦人の執筆背景・読み方の解説
次に、本作の時代背景や読み方の解説を行っていきます。
この作品を読みこなすためにはカミュの思想や価値観を理解することが必要だと感じるので、そのあたりに注意しながら読んでいただけますと幸いです。
宗教や実存主義、共産主義と全てを否定する物語
まず、この作品がタイトルにもあるような既存の「思想」を片っ端から否定していく小説であるということは頭に入れておくべきです。
実際、カミュは無神論者としても著名で、キリスト教的な世界観を重んじる西洋社会においては相当な「異邦人」と見なされたことでしょう。
ましてや、既存の「思想」、言い換えれば「権威」そのものに絶えず喧嘩を売り続けてきたわけですから、それは生きづらい生涯を送ったに違いありません。
つまり、この本で描かれている内容は「太陽がまぶしかったから人を殺した青年の話」ではなく、「人を殺した理由を『太陽がまぶしかったから』と説明しなければならなかった青年の話」と言い換えられるわけです。
作中でも示されているように、主人公のムルソーはその考えを一切理解されることはありません。
彼は社会的な「慣習」を守らないために、裁判でさえ何も取り合われることなく人類の敵だと言わんばかりに糾弾されていきます。
この描かれ方は、恐らくカミュが自身の目を通して見た「世間」そのものを比喩しているのでしょう。
つまり、見方によっては『異邦人』という小説が私小説的な色彩を帯びているともいえるわけです。
冒頭の一文や「太陽がまぶしかった」など、象徴的なフレーズが非常に多い
端的に言ってしまえば、この作品は「理解されないという名の不条理」を描いたものと個人的に考えており、その部分に関しては非常に好みの内容になっていると思います。
ただ、本作が傑作として称されるのは単純にそれを描いたというだけではないのです。
その点を示す根拠として、日本語訳でも分かるように「印象的なフレーズ」が非常に多いという特徴があります。
例えば、そもそも書き出しの一文が、
「きょう、ママンが死んだ。」
という強烈な短文によって構成されており、他にも殺人の動機として
「太陽がまぶしかったから。」
と語るなど、普通に考えれば「おいおい…」と言いたくなるような印象的な表現が用いられています。
しかし、これらのフレーズに象徴されているようなムルソーの「常識外れぶり」は、あくまで我々がそれを見た上での感想であることに留意しなければなりません。
つまり、ムルソーという人間にとって、
・母の死に何の感慨もなく遊びふけること
・太陽がまぶしかったから人を殺すこと
・死刑を目前にしても飄々としていること
は、どれもが彼にとっては「当たり前」のことであり、それを否定する我々こそが「異邦人」に他ならないのです。
では、どうして我々の価値観が受け入れられてムルソーの価値観は受け入れられないのか。
端的に答えてしまえば、それは我々が「多数派」であるからに他なりません。
母が死ねば喪に服し、人を殺すには極めてひっ迫した理由を必要とし、死刑が近づけば泣き叫ぶ。
これが我々にとっての「常識」であり、言い換えれば「宗教」そのものなのです。
カミュはそうした既存の価値観に疑問を投げかけているのですね。
※続きは次のページへ!
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