夏目漱石『坊っちゃん』のあらすじや感想、時代背景の解説!作者の教師経験を反映した「不完全」な勧善懲悪小説

坊っちゃん アイキャッチ 日本文学
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坊っちゃんの感想・考察!(ネタバレ有)

完全なハッピーエンドにならない物語

本作の「悪人は酷い目に遭い、善人は救われるべき」という、いわゆる「勧善懲悪」の世界観である点は、読んでいてスカッとするポイントです。

現代でも「街中のイラつく人がこんなひどい目に遭いました!」というエピソードがテレビ番組になっていたりしますよね。それは当時も同じで、いつの時代も分かりやすく善と悪の区別のある物語が好かれます。

『坊っちゃん』で言えば

善=坊っちゃん、山嵐
悪=赤シャツ、野だいこ

として描かれています。勧善懲悪のストーリーになるので、最終的には善の坊っちゃんと山嵐が、悪の赤シャツと野だいこをポカポカと殴りつけて懲らしめる事…という形で物語は幕を閉じます。

一見、王道のストーリー通りに物語が完結しているように見えます。

が、「善」は「悪」に一時的なダメージを与える事には成功していますが、結局坊っちゃんと山嵐はこの地を去る事になってしまいます。加えて赤シャツと野だいこは学校に残ったので、今までと同じように権力を背にブイブイ言わせるのは変わりません。

つまり、本作の勧善懲悪は問題の根本的な解決になっていないのです。本当のハッピーエンドは「坊っちゃんと山嵐が学校に残り、腐った校風を改革する」といったところでしょうし。

この点が実に興味深いと感じました。

漱石が時代の流れを汲み取って描いた作品?

赤シャツと野だいこは、言い換えれば『権力』を象徴する存在でもあります。先ほども説明しましたが、帝大卒の赤シャツは、当時の世相を反映した新しい権力の形。

対する坊っちゃんは、どちらかというと古い考え方を持っています。生徒にからかわれた時は

「宿直をして鼻垂小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。」

と言っており、「旗本」や「清和源氏」というあたり露骨に身分や旧体制に執着しているのがわかるかと思います。

ここからは完全に私の考察なのですが、この物語は自ら最先端の文化を学んできた漱石が、今までの日本的な考え方はこれから西洋の進んだ技術や文化が入ってくるうちに淘汰されてしまうのではないか、という思いを込めたのではないかと思います。

新しい文化が入ってくること自体は悪い事ではありません。事実、この時代の日本は急速に国力をつけ、欧米列強にも負けない現在の日本につながりました。

しかしその中で、坊っちゃんのような真っ直ぐで人情味のあるだけの人間は、赤シャツのようなずる賢い人間に搾取されてしまう競争社会になってしまったことも事実です。

そういった出来事の象徴として坊っちゃんと赤シャツの対決を描き、さらに完全な勧善懲悪の物語にしなかったことでその歪さを描き出したのではないかと思います。

坊っちゃんは最終的に清の元に帰りますが、この物語を話している時、清は既に故人です。これから坊っちゃんは新しい時代を一人で生きていかなくてはいけません。

古いものは去り、新しいものに替わられる。漱石は『坊っちゃん』でこう言いたかったのではないかと思います。

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まとめ

本作は読み口も軽く、わかりやすい物語で夏目漱石入門としては非常にちょうど良い作品だと思います。

また、古典文学を読む楽しさの一つである、物語の成立した背景を考えつつ考察をする上でも非常にお手軽な作品。有名作品なのでヒントとなる書籍も多くありますし、歴史的な文献もたくさんあります。

私は物語の結末が綺麗な勧善懲悪になっていなかった点が気になり、上記のような考察をしました。が、物語の気になる部分は人によって違うと思います。

是非とも実際に読んで、自分だけの『坊っちゃん』論を見つけてみてください。

参考文献

佐々木英昭『夏目漱石—人間は電車ぢあありませんから—』ミネルヴァ書房
出口汪『知っているようで知らない夏目漱石』講談社
石原千秋『漱石と日本の近代』新潮社

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