バルザックの小説『ゴリオ爺さん』のあらすじや感想、読み方の解説!「無償の愛」は恐ろしい…

ゴリオ爺さん アイキャッチ フランス近現代文学
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ゴリオ爺さんの感想・考察(ネタバレ有)

ここからは、本作に関する解釈や考察を含めた感想を述べていきたいと思います。

なお、記事の構成上多くのネタバレを含みますので、その点はご了承ください。

あまりにも救われない絶望的な悲劇

この作品は、バルザック自身が文中で書いているように「あまりにも救われない悲劇」としか表現のしようがありません。

悲劇的な作品も救いが全くないということは少ないものですが、本作の登場人物は作中内でさえ一切報われていません。

ラスティニャックは社会の欺瞞に絶望しつつもその枠の中で生きていくことを選ばざるを得ず、ゴリオは娘の裏切りを嘆きながら死んでいき、ボーセアン夫人やレスト―夫人は恋に破れ悲劇的な末路を辿ります。

そのため、特に後半部分に関しては読んでいて絶望的な気持ちになっていきました。

ゴリオが死に瀕する中、娘たちが現れないことを予想するのは簡単です。

しかし、いざその光景を目にすると、もう言葉では表現できないような悲しみに囚われてしまいました。

ゴリオは最後まで彼に付き添っているラスティニャックに感謝していましたが、その彼であってもゴリオの娘を知るまでは彼を疎んじていた人物の一人です。

その意味では、彼の味方など最初から最後まで誰一人として存在していなかったのでしょう。

極めてリアリティがあり、かつ現代でも通用するような光景を描き出したバルザックの観察眼は素晴らしいものがあります。

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「無条件の愛」というものの恐ろしさ

ゴリオ 挿絵ゴリオ(出典:Wikipedia)

作中で描かれてるゴリオの愛は極めて「誠実」であり、同時に「空恐ろしい」ものであったことにお気づきの方も多いでしょう。

彼は娘たちに「無条件の愛」を誓い、恵まれた財産によって何一つ不自由のない生活を送らせました。

欲しいものは何でも買い与え、やりたいことは何でもやらせる。

これは一見すると眩しいほどの父性愛ですが、その歪みは娘たちの成長によって露わになってきます。

金のためだけに愛を語るようになり、それでも貴族のマナーをわきまえない父を軽蔑し、かと思えば自身の危機にはふたたび父を頼る。

二人の娘は誰がどう考えても「親不孝モンスター」と呼ぶにふさわしい存在ですが、このおぞましい生き物を世に送り出してしまったのは他でもないゴリオ自身なのです。

娘にひざまずいた結果として、その報いを受ける羽目になったというのはゴリオも認めている通り。

ただ、個人的にはむしろ彼がその過ちに気づいてしまったのが、より悲劇的であると考えています。

仮にですが、カルト教団の狂信者のように「自分たちは狂っているんだ」ということを自覚することのないまま死んでいれば、ある意味で彼らは幸せなのです。

ところが、ひとたびそれに気づいてしまえば、狂った自分を軽蔑しながらもそれを演じなければなりません。

ゴリオの場合も「娘からの愛」を失う恐れには勝てませんでしたし、何より「偏愛」という過ちに気づくのが遅すぎました。

こうなってしまうと、あとはひたすら泥沼一直線。

文字通り一文無しの立場に追い込まれたゴリオは、自分の罪を自覚しながら自分によって殺されてしまったのです。

それでも「娘を愛さずにはいられなかった」というゴリオの言葉が、非常に印象に残っています。

私はいま独身で子どもがいないという立場になるわけですが、ゴリオのように娘を持つ立場になった時、今日に感じることとはまた違ったことを学ぶのかもしれませんね。

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まとめ

ここまで、バルザックの傑作『ゴリオ爺さん』を解説してきました。

ラスティニャックの立身出世とゴリオの父性愛という二つの側面から社会に蔓延している虚栄や罪を見事に描き出したこの作品は、現代でも高い人気を誇っています。

ただ、日本では「フランス文学は高尚」というようなイメージが付きまとっているためか、欧米圏に比べるとやや認知度が低い印象は否めません。

日本人を悩ませがちな宗教的要素は抑えめの作品なので、フランス文学の入門に読んでみてはいかがでしょうか!

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