枕草子の感想・解説(ネタバレ有)
ここからは、枕草子を読んだうえでの感想と解説を加えていきます。
なお、内容のネタバレにはご注意ください。
内容はハッキリ言ってしょうもないが、その表現力が素晴らしい
本作が、宮中における日常生活を書き連ねたものであることはすでに解説しました。
内容には清少納言の「感じたこと」がそのまま反映されているため、言ってしまえば「しょうもないこと」もけっこう含まれています。
例えば
・坊主はイケメンのほうがいい
・あの祭りはうるさくていやだ
・人の悪口を話すのはやめられない
…などなどが挙げられ、私は読みながら「古典の最高峰っていうけど、よく中身を見ていくとツイッターレベルの内容じゃん!」と思ってしまいました。
がしかし、この感想は本作の価値を否定するものではありません。
私としては、むしろ日常の感想をありのままに書き連ね、ともすれば作品の価値を貶めかねないこの「しょうもなさ」こそが本作の魅力だと考えています。
そう感じる理由は様々にありますが、この「しょうもないこと」が、彼女の手にかかるとすごく魅力的な形で描写されているのです。
私がツイッターでつぶやいたとすれば、文字通り無価値なテキストになってしまいがちな日常の何気ない感想を、これだけ上手に表現するのかと感嘆してしまいます。
これは、題材としているものが我々にもよく共感できるような「しょうもないもの」だからこそより強く感じられることであり、現代まで語り継がれているのも納得です。
平安貴族といえども、我々と感性はそう変わらない
先ほど、本作は我々にも当てはまるような「しょうもない」ことがらを取り上げていると触れましたが、この題材はもう一つの面白さを我々に提供してくれます。
それは「平安貴族といえども、我々と感性がそう変わらない」ということ。
清少納言が自身の眼前に広がる世界を評する感性は、現代のそれとほとんど変化がないのです。
だからこそ、「平安版SNS」と本作は表現されるのですね。
とはいえ、もちろんすべてが同じわけではありません。
当然ながら我々には全く理解できない価値観も多いですし、そうした部分で時代のギャップを感じることもありました。
それでも、根本的な感性が同一であることは疑いようもなく、上記のような違いを生み出しているのは「環境」の差でしかない、ということも学べます。
我々は国風文化を真の意味では理解できませんし、現代の価値観からいえば軽蔑されてしかるべき風習も少なくありません。
しかし、それは我々が「進んだ」人間であるからではなく、我々を取り巻く環境が「変化」したが故の違いでしかないのだ。
私は、そんなことを感じながら本作を読んでいました。
時々ふと顔をのぞかせる「没落の影」が魅力的
本作は清少納言没落後の作品でありますが、その内容が宮中生活に思いを馳せたことによる「明るさ」に彩られていることはすでに触れました。
そしてその明るさは、政争に敗れ没落した主の定子に向けたものであることも。
しかし、それでもやはり執筆したのは彼女の没落後。
常に当時の明るい記憶だけで筆を進められているわけではなく、ときおりふと現状に対する嘆きが顔をのぞかせます。
基本的にはつとめて明るく振舞っている作品だからこそ、こうした暗い一面が絶妙に読者の心をくすぐってくるのです。
いつも「私は幸せだった」と書いている女性が何気なく見せる「後ろ暗さ」。
これを実際の史実における定子や清少納言の不幸と重ね合わせて味わうと、軽妙なセンスに彩られた本作は別の一面を我々に見せてくれます。
まとめ
ここまで、『枕草子』という作品に関する解説を行ってきました。
この作品は数ある古典文学の中でも異色の輝きを放っていると考えており、むしろ古典が嫌いな人にこそ読んでほしい内容になっているかもしれません。
また、作中に登場する舞台・京都には現代で訪問することができる場所も少なくなく、読了後は「枕草子の旅」を敢行してみるのもオススメ。
京都における「古典文学の旅」については、この記事でも取り上げているのでぜひ一読してみてください!
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