川端康成の小説『雪国』のあらすじや感想、読み方の解説!二人の女性が「鏡写し」にされた日本文学の金字塔

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雪国の感想・考察!(ネタバレ有)

島村の言う「徒労」は、完成に時間をかけた作者の心情とリンクしている?

本文中で、島村は「徒労」という言葉をしきりに使います。

「駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのだとすれば、島村の頭にはまた徒労という言葉が浮かんで来た。駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落としてまで療養させたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。」

彼は駒子や葉子に対してだけでなく、自分のしていることにも「徒労」であると呟きます。しかし、この「徒労」とは何でしょうか。

字義通り取るならば、「結果をともなわない、むなしい苦労」ということになります。例えば、あなたがしたことが、何の結果も出さず、誰からも評価されないとしたら。その時、「何かをしなければならない、しかしその報いは受けられない」と思うのではないでしょうか。

何も、その手の中に残らない。言い方を変えれば、「何も完成しない」という意味とも考えられます。完成しないものを、作り続けなければいけない。

このあたりに、『雪国』という一冊が完成するまで、試行錯誤を繰り返していた作者の姿を見るのはうがちすぎでしょうか。

島村の「徒労」と『雪国』が完成するまでの長い時間は、どこかで響き合う部分があったとしておかしくないと思います。

夢を見るには「徒労」が必要

話は変わりますが、人はなぜ「徒労」を重ねるのでしょうか。「愛のため」などという虚しい説明は、それこそ徒労です。

本作中で島村と果てもないような逢瀬を繰り返す駒子は、それでいて許嫁への気持ちを抱えたままです。そこに「愛」を見るのはたやすいことかもしれません。

けれども、この作品に描かれているのは「愛」という言葉では言い表せない、もっと別の何かでしょう。

その別の何か、とは「人には徒労が必要」という主張なのかもしれません。

そうはいっても「徒労をしたいなあ」と思う方はいないでしょう。先にも説明したように、徒労とは「結果をともなわない、むなしい苦労」ですので。

しかし、もし徒労に終わったとしても、それが「いやなこと」ではなかったとしたらどうでしょうか?

人は、つねに自分という枠組みから逸脱したいと考えるものです。そのとき、自分のなかに、自分だけの世界を作るのではないでしょうか。

あるときは「物語」を通じて、またあるときは「ゲーム」を通じて。場合によっては、空想上の「国」を作り上げることもあるでしょう。

しかしそれは「今、ここで生きている自分」ではないわけですから、結果として「徒労」と言ってしまうこともできます。自分がどんなに素晴らしい物語を生きたとしても、ゲームの主人公として世界を魔王から救ったとしても、今を生きる私は変わらないわけです。

それでも、人は「徒労」を重ねます。

東京でだらだらと暮らす島村にとって、〈雪国〉は、夢のような〈国〉でした。しかし、夢の中で世界を作り上げたとしても、自分は変わりません。ならば、島村にとっての〈雪国〉は、「徒労」の国だとも言えるのではないでしょうか。

彼と同様に、その国の住人である駒子や葉子は、常に「徒労」を抱えていなければならなくなります。「理想郷なのに徒労がある」のではありません。「理想郷だからこそ徒労がある」のだと言えます。

夢を見る徒労。その意味で、「雪国」は「夢の国」でもあるのです。

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葉子と駒子の鏡写しぶりは、「小説」の本質を突いている?

島村が葉子を目に留めるのは、雪国へ向かう列車のなか。汽車の窓に映る娘と男を彼は見ています。

「それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。

鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。」

汽車の窓は「鏡」という形で表現されます。(「実際に車窓がこのように反射するのか」という点から「この箇所の情景は現実で再現可能なのか」という議論もありますが)

川端はこのシーンを何度も書き直すなど力を入れて描写しましたが、ここで重要なのは「鏡をモチーフに使っていた」ということ。

葉子だけでなく、駒子もまた、作中で鏡に写った姿が強く描写されています。それも「景色」と同化するようにして。

この作品において、「鏡」は私たちがイメージするような「モノをありのままに写すもの」ではなく、「モノを二重写しにするもの」として役割づけられています。

少しイメージしにくいかもしれませんが、鏡に写ったものは「そのもの自体」ではありません。

「わたし」が鏡に写るとして、写った顔が「わたし」そのものではないと、「わたし」自身が一番よく知っています。言うまでもなく、「わたし」は鏡の前にいるのであり、鏡に写った姿そのものではないのですから。

その意味で、鏡とは「これは、わたしではない」と思い知らせてくれる装置とも言えましょう。「〜ではない」と言うことによって、「わたし」とは何かを知ってゆくのです。

したがって、鏡に写る葉子は葉子ではないし、駒子は駒子ではありません。

…という点を踏まえれば、「駒子は葉子でもあり、葉子は駒子でもある」と言うことは可能でしょうか。駒子と葉子は言うまでもなく別人ですが、鏡写しの関係にあれば話は別です。

事実、小説の人物構造を読み解いていくと、駒子と葉子は向かい合う関係にあると考えられます。

行男という一人の男を挟んで「どうやら駒子と葉子とで三角関係にあったらしい」とほのめかされているから。加えて、「ほのめかす」という手法で表現されていることが、より一層駒子と葉子の鏡写しっぷりを表現しているともいえます。

鏡とは、「鏡そのものを写す」ものではありません。その特質が、この小説のしくみそのものと言えるでしょう。

鏡は、「何かを写すこと」によってしか鏡でありえない。何も写されていない鏡は、何も二重写しにすることはできません。同時に、本作そのものである「小説」も、何かを写すことによってしか小説にはなり得ません。ゼロから物語を作ることはできませんからね。

駒子と葉子は、鏡に写りあう関係です。その両者は、ある意味で「小説」というジャンルの本質を突いているのかもしれません。

川端が執筆にこれほど時間をかけたのも、本作が「小説そのもの」をえぐる小説であったからかも、と考えることもできます。

しかし、駒子ー葉子の鏡写しの関係にヒビを入れるのは、島村という「異物」です。

小説が物語として動き始めるのは、「鏡で完結してしまった世界にヒビが入るとき」。つまり、起承転結でいうところの「起」にあたる出来事が起こったとき、ともいえます。

そう考えたとき、島村の役目とは、鏡に「入る」ことであります。

「二重写し」になっている鏡を見ることで「それが鏡が純粋な鏡ではない」と気づきます。その気づきを与えるのが、島村という人物なのです。

これが、『雪国』と言う不思議な小説を成り立たせる鍵であったのかもしれません。

駒子という女性の「変身」と「諦め」を描く物語

ゆるやかな小説のなかで、駒子もゆっくりと変わってゆきます。身体的にも、精神的にも変化する描写がなされています。そもそも、芸者に「なる」と言うこと自体、ひとりの人間の変化を表したことであるでしょう。

その駒子の変化を、象徴的にあらわしたシーンがあります。

島村が、駒子の住んでいる部屋を訪ねるところです。

「土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。それは本当に梯子であった。上の部屋もほんとうに屋根裏であった。」

「お蚕さまの部屋だったのよ。驚いたでしょう。」

(中略)

蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた。」

蚕(カイコ)の部屋に住んでいる駒子。ここで、駒子と蚕が重ね合わされていることは間違いありません。

では、蚕とは何であったのか。

蚕はご存知の通り、糸づくりには欠かせない昆虫です。幼生の頃からマユを吐き、そのなかでゆっくりと成虫に変化してゆきます。(成虫になる時点で、マユは人にはぎ取られてしまうわけですが)

つまり、蚕とは「変身してゆく虫」なのです。

駒子が蚕の部屋に住んでいること。はっきり「蚕のように」と書かれていること。その辺りを考えると、駒子の変身が象徴的に描写されているシーンだと言えます。

では、駒子は「何に」なるのか。

先ほど見たように、駒子と葉子は鏡写しの関係にありました。それならば、駒子は葉子になるのか。

おそらく、そうではありません。

小説の最後、火事場で駒子は葉子を抱きとめます。

これは駒子が葉子と一体化したのではなく、駒子は葉子に「なれなかった」情景だとしか読めません。

駒子は、葉子になることはできなかった。というより、駒子ー葉子は、鏡の関係にはじめからありました。

人間は、鏡に写った姿そのものになることはできません。

先ほども見たとおり、鏡に写った顔を「これはわたしではない」と思うことによって、人は自分が何者であるか知ることができるのですから。

駒子は、葉子が「自分ではない」ということを誰よりもよく知っています。だからこそ、駒子は葉子に「なろうとする」のです。

駒子が葉子に対する複雑な感情。

それは、「葉子になろうとするけれど、なることはできない」と言うジレンマによるものと読むことができます。

まさしく、それは「徒労」であるのです。

駒子の「変身」は、変身が完成しません。みずからも、それが不可能と知りつつも、変わらずにはいられないこと。そして、その変身が挫折してしまうこと。それは、幼生から成虫に変身するさなかで、マユを奪われてしまう「蚕」そのものなのです。

小説のクライマックス、火事のシーンで描かれる、

「島村はまた胸が顫えた。一瞬に駒子との年月が照し出されたようだった。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。」

という一文にある「苦痛と悲哀」は、駒子が葉子との一体化を果たすことができなかったことに対するかなしみの感情なのかもしれません。

つまり、クライマックスで描かれるこの火事は、破局を意味しているのです。

駒子ー葉子の鏡写しの関係は、ここに来て決定的に壊れるでしょう。

だから、駒子は何かに「なる」のではありません。何かに「なれない」ために「変身」を続ける。
それがこの『雪国』という小説なのです。

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まとめ

『雪国』は異様な小説です。

川端康成の作品ほぼ全てがそうなのですが、一見何も起こっていないようで、そこには極度の緊張と、ドラマ性が満ち溢れています。ある意味で、サスペンスと言っていいかもしれません。それも「小説とは何か?」をめぐるサスペンスです。

その辺りが、読み手に異様な感触を与えるのかもしれません。この張り詰められた「美」は「日本的伝統の美」などにとどまるものではありません。

国際的に認められた、世界文学としての『雪国』を、どうか味わってみていただければ幸いです。

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