異邦人の感想・評論(ネタバレ有)
アルジェリアの海岸
ここからは、個人的に本作を読了したうえでの感想を書いていきたいと思います。
なお、記事の性質上この先はネタバレを多く含みますので、ご了承の上読み進めてください。
ムルソーはただのサイコパス野郎ではない?共感できる部分も多かった
本来、この『異邦人』という作品は、「世の中には不条理によって黙殺される思想がある」ということを「普通のヒト」に知らしめることを目指して描かれた物語といえるでしょう。
しかし、唐突な告白にはなりますが、私も自分自身が普段から「異邦人」的な意識をもち合わせているところがあり、ムルソーの心理には非常に共感できるところが多かったです。
例えば、母の死を悼まなかったことにより「極悪人」として見なされ、その周囲の目を本質的には理解できていないシーン。
私も同じような経験をしたことがあるため、「なぜこんなことを責められるのだろう?」と言わんばかりのムルソーの態度には非常に納得できるところがありました。
実は、私も数年前に祖母を不審死という形で亡くしています。
その際は家族全員が悲嘆に暮れていましたが、私自身は「なんでこんなにこの人たちは悲しんでいるのだろう」と心底不思議な気分になったことをよく覚えています。
誤解のないように言っておくと、表面的な理論としては十分知っていますよ。
母から見れば祖母は母で、我々から見れば祖母。どう考えても近しい身内であり、生前にはお世話になっています。
さらに、「親しい人が死んだら悲しむものだ」という知識も常識として知っていますから、理論の面では十分に把握しています。
しかし、こと「感情の面」では、やはりなぜ悲しんでいるのかが本質的にはよくわかっていないのです。
「人はいつか死ぬものだし、それが早いか遅いかの違いではないか。ましてや還暦頃まで生きたのだから、もう充分でしょう」
私はこう考えていましたし、それは今でも変わりません。
ところが、この考えが「普通のヒト」たちに理解されることはないでしょう。
私が祖母の死に感慨を抱く人たちの心理を理解できないように、祖母の死に感慨を抱かない私の心理が理解できない。
つまり、本作で描かれているテーマとはこういうことではないでしょうか。
そして、この問題は何もフィクションの命題ではなく、現実社会でもひっそりと根を張っている。そんな問題であるとリアリティをもって受け止めて読むのがいいのかしれません。
カミュの生涯がどのようなものであったかを察することができる
この作品を描いているカミュという作家は、思想的にもかなり共感できる面があります。
例えば、彼は「不条理」という語を「世界と人間の間に生じる齟齬であり、同時にそれは両者を結ぶきずなである」という表現で説明しています。
この言葉を信条としていた彼は、世の中のあらゆる不条理に対して「反抗」を試みるのでした。
共産主義・革命・宗教・歴史・実存主義…etc
しかし、彼のその姿勢は文学者として名声を得ることと引き換えに社会的な孤立を招き、サルトルらの対立から最終的には不審死を遂げてしまいます。
つまり、彼の「不条理」に対する態度は、最終的に彼を死に至らしめたのです。
この末路はムルソーのそれと非常に似通っているように感じました。
ムルソーもまた、「世間一般では許されそうもない理由で殺人を犯す」という「不条理への挑戦」を試みています。
ただ、その結果として彼は「権威」の手によって闇に葬り去られ、理性の共同性は守られたのです。
私はムルソーおよびカミュの生涯を「共感は出来ないが、実に高潔なもの」であると解釈しています。
先ほど示したカミュの「反抗」には続きがあり、彼は「不条理」と戦うことで生の喜びを享受することを掲げ、「自殺」という手段は逃げることだと断じています。
カミュの主張は最もだと思う一方で、私は「逃亡としての自殺」を否定したくはないのです。
彼の「不条理」に対する「反抗」は、たぐいまれな精神的高潔さを要するでしょう。
したがって、それはカミュにしかできないことであり、普遍的な志向性と論じるにはいささか手厳しすぎるように感じました。
みんながみんな、カミュのように戦い続けることはあまりにも難しいでしょう。
まとめ
ここまで、カミュが記した小説『異邦人』に関する解説や書評を行ってきました。
この本を「人間の不条理が描かれている」という方向から論じる方はいても、「大部分について共感できる」と論じたのは私くらいではないでしょうか。
もちろん自分が「異邦人」であることもしっかりと承知していますので、その点でいえば私がムルソーに勝っている数少ない点かもしれません。
もっとも、母の葬式のすぐ翌日に遊べるガールフレンドはいませんけどね…。
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