松尾芭蕉『奥の細道』の感想や俳句、内容・ルートを簡単に解説!俳諧を芸術にした紀行作品

おくの細道 アイキャッチ 日本文学
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月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也——。

このあまりに有名な書き出しで知られている歴史的紀行作品が、松尾芭蕉の『奥の細道』です。

本作はそれまで「遊び」の一環として捉えられていた「俳諧」というジャンルを芸術に昇華させただけでなく、彼の訪れた名所は現代にいたるまで観光地として高く評価されています。

この記事では、『奥の細道』のあらすじや著名な俳句、ルートなどを紹介したのち、読了後の感想を記していきます。

(追記:本作に関連した施設を訪問するための記事を書き終えましたので、合わせてご覧ください)

作品名は「おくのほそ道」という表記が適当に思われますが、諸般の事情により当記事では固有名詞の一部分を除いて「奥の細道」と表記しています。
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奥の細道の作者やジャンル

まず、本作に関する基本的な作品情報を整理しておきます。

作者 松尾芭蕉
執筆年 1702年
執筆国 日本
言語 日本語
ジャンル 紀行文・俳諧文学
読解難度 読みやすい
電子書籍化
青空文庫 ×
Kindle Unlimited読み放題 ×
本作の作者は「俳聖」として名高い松尾芭蕉で、ジャンルとしては旅の様子をまとめた「紀行文」および、俳句を多数収録した「俳諧文学」にあたります。

松尾芭蕉 肖像画松尾芭蕉(出典:Wikipedia)

作品の出版自体は芭蕉死後の1702年に行われ、瞬く間に広く江戸の世へと浸透していきました。

なお、本作は電子書籍として読むことも可能で、その際はAmazon発売のリーダー「Kindle」の使用をオススメします。

奥の細道の簡単なあらすじ

1689年の3月末。

俳人松尾芭蕉は、門人の曽良とともに江戸を旅立ち、奥羽や北陸の各地をめぐり大垣・伊勢を目指す壮大な旅を敢行した。

その150日におよぶ旅程の中で芭蕉はさまざまな歌枕を眺めることになり、彼はその様子を俳諧という手段で表現する。

出会いと別れ、美しさと儚さが混在したこの作品は、後世の人々に多大な影響を与えた。

こんな人に読んでほしい!

・旅行することが好き

・俳句に触れるキッカケを探している

・「侘び寂び」を美しいと思う

奥の細道の内容や俳句、ルートの解説!

その名を知らぬ人はいないというほど有名な『奥の細道』という作品ですが、一方で「小中学校の教科書に必ず本文が掲載されている」というわけではないので、その内容に触れたことがないという方も少なくないかもしれません。

ここでは、そんな方に向けて本作を詳しく知るための作品解説を行っていきます。

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基本は芭蕉による旅の記録だが、創作の面も多い

恐らく大半の方は「奥の細道が芭蕉の旅を描いた作品である」ということについてはご存知でしょう。

もちろんそれも間違いではないのですが、実は本作が旅の様子をありのままノンフィクションで描き出したかというと、どうやらそうでもないようです。

芭蕉は旅の様子を「作品の題材」ととらえており、文芸作品としての完成度を高めるために作中ではあえて事実とは異なる描き方をしています。

その証拠に、旅の大半に同行した門人の曽良が事実を中心に書き留めた『曽良旅日記』と内容が異なる部分も多く、ここから芭蕉がただ単純に旅の様子を書き連ねたわけではないことがわかるでしょう。

こうした文芸的な創意工夫があってこそ、本作や「俳諧」というジャンルは大成することになったのです。

なお、先にも見てきたように本作の出版は芭蕉死後のことであり、彼は推敲に推敲を重ねたうえで作品を信頼する弟子の向井去来に託しました。

作中に収録されている数々の著名な俳句

松島 風景
現代の松島

本作の特徴は何といっても作中に収録されている数々の俳句にあり、芭蕉が旅先で詠んだそれは現代においても語り継がれています。

特に有名なものとしては、平泉で奥州藤原氏の栄華の跡に心を打たれた際の

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

という一句や、山形の立石寺で詠んだ

「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」

あたりの句が挙げられます。

ただし、「芭蕉が詠んだと誤解されている著名な句」というものも実は存在し、彼が松島の美しさに心を奪われて思わず詠んだとされる

「松島や ああ松島や 松島や」

という一句については、後世の創作であり芭蕉の句ではありません。

実際の芭蕉本人は松島でその美しさに感動し、中国に伝わる「心の底から美しいと感じたものは歌にしない」という形で心情を表現したと伝わります。

芭蕉の「句を詠まなかった」という逸話が曲解され、上記の句は没後100年ほど経過した江戸後期に初出しました。

なお、奥の細道で松島を訪れた際には、芭蕉の代わりに曽良が「松島の眺めは素晴らしい」という旨の歌を詠んでいます。

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過酷なルートに思えるが、後世で足跡をたどる人は絶えない

芭蕉の旅したルートは非常に過酷であったことが知られており、全行程合わせて約2400kmという超長距離を、日数にして150日で周りました。

奥の細道 ルート芭蕉が辿ったルート(出典:大垣市HP)

旅先での滞在時間は長くて十数日程度で、基本的には数泊で次の目的地を目指しています。

加えて、芭蕉は45歳という当時にしては高齢の時に旅に出たことから、彼が伊賀という忍者を輩出した地域出身であることに注目して「芭蕉は忍者で、旅行は仙台藩の後ろ盾を得たスパイ活動だった」という説が提唱されるほど。

実際、旅に必要な資金や関所の通行権、仙台藩内の松島に1日しか滞在しなかったなどを考えても一応つじつまの合う点はあるので、絶対にありえないとまでは言い切れないような気がします。

ただ、これを学術的に証明するのは難しそうなので、あくまで異説の一種として楽しむのが適当でしょう。

上記のように非常に過酷な旅ではありましたが、それゆえに芭蕉は東北・北陸の広範囲を訪れることができたのです。

そのため、本作が高く評価されるようになると、作中に登場した名所の数々を訪れる人が後を絶ちませんでした。

以後、これらの場所は観光地化していき、2014年には「おくのほそ道の風景地」として、12県25か所の地が国指定名勝に認定されています。

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