映画『ブレードランナー』の原作として、また特長のあるタイトルで知られるP・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(Do Androids Dream of Electric Sheep)。
異質なタイトルは数多くのパロディを生み出したため、「作品名だけは知っている」という方も多いのではないでしょうか。
しかし、実際に手に取って読んだことがあるか?と聞かれると、なかなかそこまでは至っていないのも現状。
そこで、「SFはわかりにくそう…」と思われる方にも親しんでいただけるよう、作品の内容を簡単にまとめてみました。
なお、この記事では1ページ目にあらすじや作品情報・トリビアといった解説文を、2ページ目は書評(ネタバレ多め)を掲載していますので、部分ごとに読んでいただいても大丈夫です。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?の作品情報
作者 | フィリップ・K・ディック |
---|---|
執筆年 | 1968年 |
執筆国 | アメリカ |
言語 | 英語 |
ジャンル | SF小説・長編小説 |
読解難度 | 普通 |
電子書籍化 | ○ |
青空文庫 | × |
Kindle Unlimited読み放題 | × |
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?の簡単なあらすじ
——〈最終世界大戦〉後の荒廃した地球。
人類を慰めるのは、共感(エンパシー)ボックスによる、精神の〈融合〉と、動物を飼うこと。
しかし、生きた動物を飼えるものはわずかな富裕層。
賞金かせぎ(バウンティ・ハンター)のリック・デッカードは、本物そっくりの電気羊しか持てないことに不満を抱いている。
リックの仕事は、人間の中に潜むアンドロイドを見つけ出し、処分すること。
移民星では、労働力として人間そっくりの有機アンドロイドが酷使されている。その結果、アンドロイドの中には主人を殺し、地球に脱走してくる者たちが後をたたないからだ。
稼ぎを得たいリックのもとへ、最新型アンドロイド「ネクサス6型」のグループに莫大な懸賞金がかけられた、というニュースが飛び込む。
本物の動物を手に入れるため、リックの追跡がはじまった。
一方、廃高層住宅に住むしがない青年ジョン・イジドア。
精神能力テストに失格した彼は、「ピンボケ」と呼ばれ、孤独な生活を送っていた。
そんな彼は、逃亡中である女性「ネクサス6型」のプリス・ストラットンと出会うが——。
こんな人に読んでほしい!
・人生に違和感を覚えている人
・こころに沁みる小説を読みたい人
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?の解説
作者・ディックはダメ男ながら、「外」に感情移入ができる人物だった
本作の作者、フィリップ・K・ディックとはどのような人だったのでしょうか。
フィリップ・K・ディック(出典:Wikipedia)
ディックと親交があったSF作家のティム・パワーズはディック(愛称フィル)について、次のように述べています。
友人のみならず、たとえ赤の他人の些細事でも、自分に期待がかけられているような気がすると助けずにはいられないため、ずいぶん厄介事をしょいこむのを見てきた。
彼のところに電話で助けを乞う声は、二四時間のうちの一時間でも止んだためしはなかったし、おおかた可能な限りそれに応えてしまうのだ。
フィルの友人はよくこう言ってたものだ。もし彼に電話して「フィル、車は壊れちまったし、家も立ち退きをくらっちまってさ。良かったら、四百ドルばかし貸してもらえないか? あと、ソファーを動かすのも手伝ってもらえると助かるよ。」なんて言ったとしたら、こう答えるだろうって。「よーし、今行くよ…うーんと…ところで、どちらさんでしたっけ?」
ディックは五回結婚し、五回離婚しています。
薬物中毒で、生涯の途中からついに健康を回復しませんでした。
加えて、主流文学(メイン・ストリーム。日本で言う「純文学」にあたる)を書きたいと願いながら、最後までそのジャンルでは成功することがありませんでした。
いわゆる「ダメ男」であったことは、想像に難くありません。
しかし、パワーズの述べる「フィル」の姿は、なんと愚直であり、崇高なのでしょう。この崇高さは、「ダメ男」だからこそ、なのかもしれません。
また、ディックは人に対して(あるいはそれ以外のものに対しても)、とにかく「感情移入」をしてしまう人間だったようです。
本作は、そんなディックの魂がストレートにあらわされた作品だったかもしれません。
イジドアには、ディックの実体験が反映されている?
アンドロイドに尽くしてしまう青年ジョン・イジドアには、モデルがあります。
邦題『ジャック・イジドアの告白』(旧邦題『戦争が終わり、世界の終わりが始まった』、原題〝Confessions of a crap artist〟)の主人公、ジャック・イジドアです。
両者とも、周りからはおろかと見られる青年。しかし、その愚直さが、人の心の真実を照らし出すのも共通しています。
ジャック・イジドアには、ディックの実体験が反映されていると言われ、ここからも「イジドア」に作者の祈りが込められていると言えるかもしれません。
アンドロイドに桃の缶詰を買ってゆくジョン・イジドアの姿も、彼に重なるものでした。
未来を正確に言い当てたSF小説のひとつ
SFを評価する際、一つの基準として「当たった」か「外れた」か、というものがあります。
これは、過去のSF作家が描いた未来予想図が、いざ未来になった(つまり、現在の年代が「未来」に追いついた)とき、どこまで想像が現実になったか、をはかる言葉。
その一方、「SFは占いではない」として、SF作家や愛読者たちはこの言葉を嫌います。
しかし、あえてこの点から本作を評してみましょう。
個人的な見解ですが、近未来に関する限り、ディックは最も「当たった」作家ではないかと思うのです。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の舞台は1992年。
本作が執筆されたのは1968年までですから、執筆時点では「未来の話」でありました。が、現代を生きる我々からしてみれば、すっかり過去の話になってしまいました。
しかし、作中に出てくる
・飛行車(ホバー・カー)
・光線銃
・有機アンドロイド
は、舞台になった1992年どころか現代になっても実現されていません。
これも関連して、ディックに対する批判には「科学知識がなかった」というものがあります。実際、彼は科学的な知識に基づいて、綿密な「科学小説」を書いたことはありません。
しかしながら、共感ボックスはどうでしょうか。(共感ボックスについて、詳しくは後述します)
インターネット社会を正確に予言していたとは言いません。ネットと本作の共通項も、単なる偶然かもしれない。
それでも、ディックの作品には、いま、ここで生きているわたしたちの心を、的確に写す描写があります。
「この世界が苦しいものである」ということ。同時に、「苦しさに、どうわたしたちは立ちむかっていけばいいのか」ということ。
それは、「人間が描けているSF」ということではありません。本作は、「人間とはなにか?」ということを追求した小説でした。
ディックは、どこまでも「人間とはなにか?」ということを追求し続けた作家だったのです。
したがって、「近未来の人間」を「当てた」のは、『2001年宇宙の旅』を描いたアーサー・C・クラークでも、「ロボット三原則」で知られるアイザック・アシモフでもなく(無論、この二人がすぐれたSF作家であることには疑いがありません)、フィリップ・キンドレッド・ディックだったと、断言してよいでしょう。
その意味で、ディックの作品、特に本作には、いまだからこそ読まれる価値があると思われます。
映画『ブレードランナー』とは基本的に別物
小説とはやや離れますが、映画『ブレードランナー』にも少し触れておきます。
ブレードランナーのDVDジャケット(出典:Amazon)
公開後に熱狂的なファンを生み出し、2017年には『ブレードランナー2049』という続編が制作されるなど、現代に至るまで不朽の世界的SF映画として知られるこの作品。
しかしながら、映画は本作を原作としてはいるものの、両者は「設定が同じだけの別物」とよく言われます。
さらに「監督のリドリー・スコットは原作を読んだことがないのではないか?」と揶揄されることも珍しくありません。
そもそも「ブレードランナー」という言葉自体、ディックと同じくアメリカで活躍したSF作家W・S・バロウズの同名小説から引用されたもの。
特にこれといった理由もないため、現代風に例えるなら「ワンピースをアニメ化する際に、語感がいいからと題名をNARUTOにした」という感じでしょうか。
我々の感覚では、ちょっと理解できません。
しかし、映画では原作と同じ「破滅とその救済」というテーマに、別の視点から光をあてていると見ることもできます。
確かに別物ではありますが、どちらも世界的名作。両者を読み、観比べることも一興かもしれません。
違いを知ることによって、それぞれの作品の美点がよりお解りになるかと思います。
※続きは次のページへ
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