『痴人の愛』の感想と解説
さて、いよいよ本作に対する個人的な意見や感想をまとめてみたいと思います。
論点は主に三つで、譲治の内面と小説の視点、名作古典『源氏物語』との関連性を検討する構成です。
恋愛弱者が抱く謎の自信に共感してしまう
作中でも言及されているように、遊びを知らず仕事に熱心な人物というのが譲治の姿です。
しかし、彼は内心に「ナオミを理想の女に育て上げてやろう」という野望を秘めています。
この心理描写が明らかにするものは、恋愛未経験にも関わらず女を手玉にとれると考えている譲治の「過信」ではないでしょうか。
恋愛について酸いも甘いも理解できている方からすれば、この考えがどれほど危険なものかわかるでしょう。
しかし、残念ながら譲治と肩を並べるほど恋愛と縁遠い私は、彼の気持ちがよくわかってしまうのです。
もちろん、共感できるのは「理想の女にしてやろう!」という部分ではなく、「本気を出せば女を意のままにできる」と思っている過信の部分です。
以前当ブログでも述べましたが、高校時代は学校随一の日陰者だった私は、当然ながら恋愛のれの字も知りませんでした。
にもかかわらず、いざ大学に入ってみると「本気を出せば彼女くらいできるでしょ」という謎の過信に満ちていたことを思い出します。
「彼女くらいできるでしょ」というのは一見支配的でもありませんが、よく分析していくとこの感情は「女が自分を好きになる(意のままになる)」という驕りが見え隠れしており、本質的な部分は譲治と変わりありません。
そして、この驕りは見事に打ち砕かれて灰色の大学生活を送ることになります。
ただ、よく考えればナオミと出会ってしまうよりはよかった…のかもしれませんね。
ナオミの視点でこの物語を読み直すと面白い
本作の物語における視点は一貫して譲治目線によるものであり、本当の主役であるナオミの心理や行動はあくまで譲治の目に写った印象でしかありません。
そのため、本作を読み直した後にもう一度ナオミ視点でストーリーを再検討してみるとより面白さを味わえると思います。
特に、ナオミが慶應の不良たちと遊び始めたあたりからは、相当に譲治を見下していたのがよく分かるでしょう。
譲治視点の物語である以上描かれこそしませんが、彼のいない場所では確実に愚痴をこぼして遊び放題であったに違いありません。
それでも、「彼女から逃れることができない」という状態まで陥ってしまう譲治の姿は、滑稽であると同時に空恐ろしさを感じてしまいます。
また、カフェで働く頃のナオミは大人しい少女として描かれていますが、本質的な部分は一貫して変わっていないのでしょう。
私の知り合いにも田舎から芸能界に入った途端、尊大になって周囲を見下すようになった女性がいますが、彼女もやはり本質的にはそういった部分をのぞかせていたことを思い出します。
一見の印象に騙されずによく相手を知りましょう、ということですね。
源氏物語の影響を色濃く受ける作品
源氏物語絵巻(出典:Wikipedia)
本作のストーリーラインを追ってみると、紫式部が描いた世界最古の恋愛小説『源氏物語』の影響が非常に強く映し出されています。
光源氏は若紫に藤壺の面影を見て、多少強引な手段を用いつつも彼女を養育する道を選択しました。
しかし、光源氏は類まれなる美貌と才覚に恵まれていることを作中でも指摘されており、若紫は見事な女性へと成長していきます。
この展開、本作で描かれている譲治とナオミの関係性に近いものを感じませんか?
恐らく、谷崎は自分が経験した三千子の魅力を、源氏物語という名作古典のストーリーラインに乗せる形で本作の執筆に着手したのでしょう。
谷崎と源氏物語の関係については今さら論じるまでもないことで、それは彼が与謝野晶子と並んで近現代における源氏物語の訳者としても名高いためです。
こうした背景と作品の特徴を考えれば、源氏物語との関連性を述べないほうがむしろ無自然かもしれません。
それでも、単なる翻案に終始しないところが谷崎の腕なのでしょう。
彼は光源氏の立場に「一般人」をキャスティングしたらどうなるか、を本作で示してみせたといえるのではないでしょうか。
これは光源氏の特質さを示すと同時に、恋愛的な観点における価値意識は不変のものであることを強調しているでしょう。
世界最古の小説は、こうして近現代の作品にも多大な影響を与えているのです。
まとめ
ここまで、谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』について様々な観点から語ってきました。
小説としても完成度が高く、普遍的な問題を扱っているため現代で読むことに何の支障もありません。
ただ、精神的なマゾヒズムを扱いこそすれど、肉体的なマゾヒズムを取り上げているシーンは多くないので、谷崎のエロティシズムを期待して読むとやや物足りない内容かもしれません。
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